しぐさの情報量

2017.08.01

 「いつの頃からか、夏の暑い日ざかりでも、出かける時には必ず、片手に上着を持ってゆくという習慣がついてしまった。用心のためである。いつどこで、恐るべき冷房の寒冷地獄に見舞われるか、分ったものではないからである」と澁澤龍彦は書いているが(『太陽王と月の王』所収「冷房とエレベーター」)、これには深く首肯せざるを得ない。わたしなどは「持ってゆく」どころか上着を着ていないとどうにも不安でならないほどだ。日本の夏がどんどん暑くなってゆくのと相反して、同じ時期の室内はますます寒くなっている。相反してと書いたが、暑いからどんどん冷やすという因果関係があるのは明らかであり、相反しているのはつまり温度のベクトル、というほどのことになろう。とにかく屋内には冷えすぎた場所が多いのである。よって、なにかしらの上着がわたしには必要となる。


 少し前のことだが、京橋で新作映画の試写を観る前に銀座で昼食を摂った。本格的な夏を思わせる暑さの日であった。銀座通りを歩きながら、道行く人を眺めると、皆、当然のように薄着である。ビジネスマンなら白いシャツにスラックス。買い物客や観光客はTシャツ姿が多い。さらりとしたワンピースに日傘という女性が少なくなかったのは銀座という土地柄のせいだろうか。こちらはといえば、パジャマシャツ型のリネンのジャケットを羽織っている。まわりを見回すと、上着着用は自分以外にはあまりいない(年配の男性は多少見受けられる)。確かに屋外で上着ありはすこぶる暑いのだが、まぁ何を着ていても暑いときは暑い、となかば諦めているので自分は一向に構わない。むしろ薄着で出かけてしまって、室内で寒い思いをする方が困りものなのだ。


 翻って、いつ頃まで薄着で外出していたかを思い返すと、おそらくは10代までであったと思う。Tシャツや半袖シャツでも震え上がるような寒さを経験したことがなかったのは、冷房装置の性能もさることながら、自分が若かったからだろう。とはいえ、当時も別段冷房に強かったとは思えないので、10代から徐々に身体が対応できなくなってきた、ということの方が正しいにちがいない。こればかりは致し方ないのである。


 「たとえば『軽さのエレガンス』ということがある。文章は、あまり仰々しく重々しくなってはいけないのである。伊達の薄着のように、着ぶくれしないで、しゃんとしていなければならない。軽さもエレガンスも、怠惰や無気力を拒否する精神の特質であろう」とは、澁澤龍彦が文章の心得について記したものだが(同「嘘の真実 私の文章修業」)、ファッションも着ぶくれはさけたいところ。夏場なら上着は着ていても暑苦しく見えないような「軽さのエレガンス」を大切にしたいと、わたしも思う。つまり、着ていながらにして軽やかであるということで、これはもちろん選ぶものや着方にもいえることではあるが、立ち振る舞いによって実現可能でもあるだろう。しぐさや動作に「怠惰や無気力を拒否する精神」を宿す、ということである。


 しぐさや動作から受け取ることができる情報量というのは、思いのほか多い。たとえば暑いさなかにダラっとした歩き方をしていると、余計に暑そうにみえてしまう、というようなことである。何を着るかとかどう着るか以上に気をつけたいところだが、自らの裡に他者性を持ち合わせていないことには、なかなか実現できないことでもあるだろう。人のふり見て……とはよくいわれるが、スマホの画面に没頭している人にとっては「人のふり見て」は通用しない。何せ「人のふり」など眼中にないからであるからだ。もうこうなると、おかしな姿勢になっていたり見苦しい感じになっているときにアラートがくるような「人のふり見て我がふり直せ」アプリでもないとどうしようもないのではないかと思ったりもする(もう実際にあったりするのだろうか)。


 効きすぎの冷房から思わぬところに話が及んだ。今日から8月、夏本番。立ち振る舞いくらいは涼しげにきりりとしていたいものである。家のなかで過ごすときに、だらしない雰囲気でなく、なおかつ涼しいものはなんだろうと改めて考えてみると(わたしは部屋着的なものは持ち合わせていない)、浴衣は悪くないのかもしれないとふと思った。昔なら考えつきもしなかった浴衣という選択肢が浮上したのは、年齢のせいだろうか。とはいえ、実現に向けて何か調べているわけでもなく、きっと気がつけば夏が終わっていそうな気配が今のところは濃厚である。

(メディア向けメールニュース「BEAMS NEWS」Vol.381掲載のコラムに加筆)