反転、のち、新しい世界––––『RAW~少女のめざめ~』

2018.02.20

 先ごろ公開になった映画『RAW~少女のめざめ~』は、ジュリア・デュクルノー監督の長篇デビュー作で、第69回カンヌ国際映画祭の国際批評家連盟賞を受賞している作品だ。


 ベジタリアンのジュスティーヌ(ギャランス・マリリエ)は、両親が卒業し、姉・アレックス(エラ・ルンプフ)が在学中の全寮制獣医科大学に晴れて入学することとなった。新しい環境への希望や学習意欲の高まり(彼女はとても頭がいいのだ)にじっくり浸る間もなく、ジュスティーヌを含む新入生は先輩たちからの「洗礼」を受けることとなる。白衣を着て整列する新入生たちの頭上から動物の血がふりそそぎ(『キャリー』へのオマージュであろう)、ひとりずつうさぎの腎臓の生食を強要される。ベジタリアンのジュスティーヌはムリ! と拒むが、アレックスにこれを無理やり食べさせられてしまう。そのおかげでジュスティーヌの身体にはアレルギー反応と思しき湿疹ができ、痒いものだからこれを掻きむしって、皮膚がむけてしまった。これをきっかけに、ジュスティーヌに変化が訪れる。ベジタリアンだった彼女が肉を欲するようになるのだ。はじめは普通の肉だったのが、とある事故的な出来事から人肉の味を知ってしまうジュスティーヌ––––。


 人肉食=カニバリズムが出てくるということで、アメリカでは観客にエチケット袋が配られたそうだが、カニバリズムについてはいうほど目を背けたくなるような描写はないと感じた(人によって耐えられるレベルが異なるので、参考程度に願いたい)。それよりも、先に挙げた自分の皮膚を掻いて掻いて掻きこわしてしまうシーンや、肉食にめざめたジュスティーヌが自分の髪の毛をのべつまくなしに食べて吐くシーン(このあと、吐き終えてひと息ついたところはかなり笑える)などの方がゾクッときた。それはおそらく掻きこわしたり吐いたりすることの方が、人肉食よりも自分に近しい出来事だからだろう。この作品の怖いところはしかし、そうした描写にあるのではなく、身近に存在する当たり前と思っていたことが、何かをきっかけにして容易に反転してしまうという脆さ、物事の両義性ではないだろうか。


 ところで、人肉という言葉を目にすると反射的に思い出すのが、雑誌『ビックリハウス』で連載していた赤瀬川原平の「人肉はまだ食べていないけど」というエッセイだ。思い出す、と書いたが、エッセイの具体的な内容はあまり覚えておらず、ただただタイトルだけを記憶している。どういうわけだか「人肉はまだだけど」と覚えてしまっていたのだが、とにかくそれほどインパクトが強かったのである。改めて調べてみると、貧乏で食べ物があまりないときに何を口にして飢えをしのいでいたかについての話だった。つまり「人肉はまだ食べていないけど、こんなものやあんなものなら食べた」ということなのだが、タイトルの「まだ」がなかなか効いている。このまま飢えが続いたならひょっとすると食べてしまうかもしれない、ということを感じさせるからだ。『ビックリハウス』で「人肉はまだ食べていないけど」の連載をしていたのは1981年から82年にかけてで、このエッセイのタイトルは当時世界を震撼させていたパリ人肉事件を念頭に置いてつけられたものだろうことは想像に難くない。ちなみに同エッセイは、中公文庫の『少年と空腹 貧乏食の自叙伝』にて読むことができる。


 さて、『RAW~少女のめざめ~』に戻ると、先に触れたカニバリズムはもちろん重要な要素ではあるのだが、本作は単に露悪的な描写に終始しているわけではない。これはホラーと呼ぶにはあまりに苛烈で切ない家族の物語であり、少女が大人へと変化してゆくあるひと時の話なのだ。スクリーンに広がる血肉におののきながらも、アレックス、母、そして父、それぞれのジュスティーヌとの関係の持ち方には注意を払っておきたい。


 私がこの作品を理解するうえで考えたキーワードは「嗜好」「家族」「リセット」「正常と異常の境界線」などで、同時にサド、バタイユの文学作品、一連の吸血鬼もの、『キャリー』『サスペリア』『フェノミナ』『キャット・ピープル』(ナスターシャ・キンスキーの方の)『ソドムの市』といった映画を思い浮かべ、またある場面では丸尾末広の影響も感じ取った。これらにもとづき、劇場用パンフレットに「新・ジュスティーヌと家族––––これはホラーではない」と題したエッセイを寄せているので、ご興味のある方は劇場にてパンフレットをお買い求めいただけたら幸いである。私のほか、町山智浩さん、真魚八重子さん、小林真里さん(みなさん映画評論家)が執筆なさっていて、読み応えもたっぷりだ。


(メディア向けメールニュース「BEAMS NEWS」Vol.408掲載のコラムに加筆)