映画のほとりから––––19世紀末と現代、など

2016.12.15

 1839年にダゲレオタイプ(銀板写真)と呼ばれる写真撮影方法が発明され、リュミエール兄弟のシネマトグラフが1890年代後半に登場した。これらに象徴されるように、19世紀末から20世紀初頭は圧倒的に「見る時代」であった。いや、写真や映画ばかりではない。博物学の発達を進化した印刷技術がサポートして、詳細かつ美麗な動植物画が世の中に出回り、自国の国力や先進性をアピールする国際博覧会(万国博覧会)は興隆を極めた。百貨店もまた然り。人々は「見る」ことで様々な欲求を満たし、また「見られる」ものを消費していった。


 「見られる」対象を消費するということは、文字通り大衆が購入することであり、こうした消費性向を通じて一般大衆における「流行」が発生する。高山宏はヴィクトリア期を以下のように説明している。「そう、『商品』がキーワードになる時代でもあって、『博物学の全盛期』が英国で近代の『新商業』最大の〈発明〉品たるショー・ウィンドーの発達していく時期と完璧に重なっているなどというのも多分偶然ではない」(三省堂刊『世紀末異貌』「表象の世紀末」)。以後、この「商品がキーワード」という傾向はより顕著になり、19世紀末にあっては「見られる」ものに対する消費欲=所有欲は高まるばかりであった。「19世紀後半にかけて次々と百万メガロポリスになっていったヨーロッパの各帝都には未曾有の事物と情報が溢れ、区分と整理、光学と循環、〈新商法〉と見世物、即ち〈表象〉の嗜欲と発見に憑かれた異貌の世紀末がはじまる」(同前掲)。


 産業革命以降、機械化の浸透により同じ規格のものを量産することが可能になった。その結果、比較的安価なものが市場に出回るようになると、ショッピングの楽しみは一般大衆にも及ぶこととなる。現在の消費社会の始まりは、だから、概ねこの時代にあると考えていいだろう。ショーウインドウに展示されるものたちが一般大衆にとって魅力的に思われるには、一目瞭然のわかりやすいものである必要がある。あるいはそれを訴求する明快な謳い文句。おそらくは現在よりも識字率などにおいて差があったであろう19世紀末、あまりくどくど説明しなくても、そのものを欲しいと思わせなければならない。それが高じると、謳い文句が大げさになったり、あるいはショッキングなものになったりといったことが生じるわけで、このあたりなどはインターネット時代の現代とさほど変わりがないのである。


 19世紀末から20世紀初頭のことを唐突に書いたが、その理由は、この時代を舞台にした、あるいは関係した映画を何本か観て、それに関連するいくつかの文献にあたるうち、現代との相似点に改めて気づいたからだ。上記以外にも、たとえばオカルティズムの台頭と昨今のスピリチュアル系や医療などにおける根拠のない民間療法の流布のようなこともシンクロしているから驚いてしまう。思えば、写真や映画といった新しいメディアが一般的になっていったかの時代と、インターネットやVRが当たり前となった現在とでは、対象は違えどそれらを取り巻く状況に似ている点を見出せるのも強ちずれてはいないのではなかろうか。つまりは新しいテクノロジーに対する受容態度の問題である。


 観た作品の話を少しばかりしておこう。『エゴン・シーレ 死と乙女』(2017年1月28日公開予定)は、1918年、28歳で夭逝した画家エゴン・シーレと、彼に関わりのあった女性たちを描いた作品だ。ご存知のように、シーレの作品には女性はなくてはならない存在であり、本作ではそうした女性たちのシーレに対する心情を丁寧に表現しながら、画家、そしてひとりの男性としてのシーレ像を抽出してゆく。シーレを演じたクールな男前(実際のシーレよりもちょっと甘くて、でもクール)のノア・サーベトラを筆頭に、若き才能を全面的にフィーチャーしているが、ユーゲントシュティール(フランスでいうアール・ヌーヴォーと同義であり訳すなら「青年のスタイル」)の系譜に位置付けられるエゴン・シーレの物語としては、実に正しい配役ではないだろうか。この作品については、発売中の『CREA』1月号(文藝春秋)の連載「青野賢一のGREAT CINEMA」で取り上げているので、ご興味ある方はそちらも参照いただければと思う。ちなみに本作はストーリーの展開や俳優の演技もさることながら、衣裳がとてもいい。ちょっと<NICHOLAS DALEY>や<ANN DEMEULEMEESTER>を思わせるようなその服は、ファッション好きが観てもなかなか面白く感じるのではないだろうか。


 『ダゲレオタイプの女』(公開中)では、題名に違わずダゲレオタイプが重要なモティーフとなる。本作は現代劇ではあるが、冒頭に記したようにダゲレオタイプの発明は19世紀。黒沢清監督は、この映画のそこかしこにダゲレオタイプ以外にも19世紀的な気配を忍ばせている。たとえば、ダゲレオタイプの魅力に憑かれた写真家・ステファン(オリヴィエ・グルメ)のモデルを務めるステファンの娘・マリー(コンスタンス・ルソー)は庭の温室で様々な植物を育て、愛情を注ぐ。温室は、植民地経営とそれがもたらした博物学的興味の増大、そしてエキジビション志向、さらに前述とはややベクトルが異なるが室内的な物事への関心(室内装飾など)の高まりから、19世紀のイギリスを中心にヨーロッパ各地で流行したものだ。その背景には素材製造技術の進歩––ガラスと鉄骨の普及があったことはいうまでもないだろう。公共のものだけでなく個人の庭などにも作られた温室だが、個人所有のものは、先の室内的な物事への関心もさることながら、植民地主義的博物学の発露たる大型公共温室(植物園)のミニアチュールとしても捉えられそうである。やや話題が逸れたが、この温室や、郊外に建つ古色蒼然としたステファンとマリーの邸宅(これはゴシック風味といったところだろうか)など、現代を舞台にしながら、ダゲレオタイプ登場の時代を想起させる仕掛けがこの映画の随所に見られるのである。


 ところで、映画といえば、つい先日シアター・イメージフォーラムで開催していた「深田晃司映画まつり」の最終日にすべり込んで、『ほとりの朔子』(2013年)を観てきた。最新作『淵に立つ』でかなり衝撃を受けて、がぜんこの監督の作品に興味を持ったからだ。浪人生の夏の「ヴァカンス」を、二階堂ふみが実に「普通に」演じた『ほとりの朔子』は、オープニングのシークェンスからエリック・ロメールを彷彿とさせる映像とストーリーで引き込まれた。後で監督のインタビューを読んだら、タイトル案も当初は『海辺の朔子』だったようだが、それだとまんまロメール(『海辺のポーリーヌ』)になっちゃうから、と、ずっと好きで使ってみたかった言葉である「ほとり」に変更したのだそうだ。深田作品はまだ2本しか観ていないが、どちらも「ほとり」や「淵」という、あちらとこちらの境界線に生きる人々の揺らぎが丁寧に描かれていて、他の作品も観てみたいと思っている。最終日ということで、上映後に深田監督が前に出て短いスピーチをした。その後、外にいた監督に挨拶し(初対面だった)、以前『淵に立つ』を連載で取り上げた旨伝えてその場を辞した。

 映画の連載を始めたことで、これまで以上に映画に触れる機会が増え、そこから色々と考えを巡らせることも少なくなかった2016年。何かをきっかけにして思索の海に泳ぎだすのは、それが何であれ楽しいものだ。さて、来年はどんなものに出合えるだろうか。出合ったときに打ち返せるように、自らの鍛錬を怠らないようにせねば。


(メディア向けメールニュース「BEAMS NEWS」Vol.353に掲載のコラムを改稿、加筆し掲載)