人の営み、神々の装束、伝統行事

2017.01.20

 12月の終わりに茨城県水戸市の水戸芸術館を訪れた。水戸芸術館現代美術ギャラリーでの写真家・石川直樹初の大規模個展「石川直樹 この星の光の地図を写す」を見るためである。品川駅から特急で1時間半ほど揺られ、水戸駅に着いたのは14時過ぎだった。まず昼食を求めて駅近隣を流してみるも、日曜日だったこともあってほぼ全滅(下調べをしないのが悪いのだが)。駅隣接の商業ビルの中で中華料理を食べたのち、水戸芸術館に向かった。


 敷地が広いというのと、やや遅めの時間になってしまったせいもあるのか、会場内は比較的空いていて、展示室のひとつひとつをゆっくりと観てまわることができた。ご存知の通り石川直樹は世界各国を旅して作品を撮る写真家で、K2登山などのイメージから冒険家的な側面がクローズアップされがちだが(少なくとも自分はそういった印象が強かった)、本展では、石川自身のことばが添えられることで、以下の事柄を明らかにしている。すなわち「石川が一貫して関心を寄せるのは、地球上のあらゆる場所に古くから伝わる生きるための『技術=叡智』であり、国境などの区分では捉えきれない各地の有機的なネットワークの有り様です。石川の目と足による縦横な探求は、文化人類学的なフィールドワークであると同時に、もともと『技術』という意味を語源にもつ『アート』を追求する果てしない旅ともいえます」(水戸芸術館ホームページ、展覧会概要より)。人の生きた痕跡、歴史のなかで風化されずに残っている風習などを、極限の自然に、あるいは日々の暮らしに見出して写真に収める石川のアプローチが非常に理解しやすい、いい展示であった。


 展覧会を観終わってミュージアムショップを覗くと、シャルル・フレジェ『YOKAI NO SHIMA 日本の祝祭––––万物に宿る神々の仮装』(青幻舎)が目に入った。昨年の2月から5月まで、銀座メゾンエルメス フォーラムで開催されていたフレジェの個展「YÔKAÏNOSHIMA」で展示された作品を書籍化したものだ。民族衣装、伝統衣装、儀式や祭礼のためのコスチュームなどをシリーズとして撮影するフレジェの作品は、先に触れた石川直樹の作品と同様、人間の営みや知恵を伝えてくれるもの。この書籍『YOKAI NO SHIMA』には、日本各地に残る固有の仮面神、鬼たちの姿がポートレイトとして収められている。6月末に発売されていたがまだ購入していなかったのでさっそく買い求めることにした。


 本書に収録された作品は、秋田から沖縄の島々まで、実に全国58箇所で取材・撮影したものだが、その多くは各自治体や保存会の協力を得て、祭礼の最中ではなく独自のロケーションにて撮影されており、そのことが被写体たる「YOKAI」を過不足なく表現している。ナマハゲは雪に覆われた人気のない海岸にすっくと立ち、獅子は雪原で雄叫びを上げ、カマ踊りの踊り子たちは錆びたシャッターやトタン板の前で歪な表情のまま立ち尽くす。ちょっと怖かったり、またユーモラスだったり、凛々しかったりと、ページをめくる楽しみと驚きが詰まっているのである。また、『YOKAI NO SHIMA』で見られるような神々の衣装の素材や所持品にも、それぞれ意味や理由があるのはよく知られるところだ。藁や蓑は五穀豊穣(ナマハゲ、カセ鳥など)、男根を模した棒は子孫繁栄やこちらも五穀豊穣(つぶろさし、ちとちんなど)を意味する。顔や身体に塗られる煤、泥(黒鬼、パーントゥ)にももちろん意味がある。使われるマテリアルには地域性があるだろう。わたしたちが普段身につけている洋服の素材やつくりにおいても、意味や地域性が秘められているものは少なくない。それを薀蓄として捉えるのではなく、人の知恵や営みの結果生じたものと考えると、がぜん面白くなる。なぜこのマテリアルでなければならないのか、なぜこうした仕様でなければいけないか。いにしえの異形の神々の姿から、思いがけず今のわたしたちの服が召喚された。


 ところで、ナマハゲといえば、NHK NEWS WEBの「Cameraman'e Eye」というコンテンツで「冬点描 ”やさしい”ナマハゲ」と題し、秋田県男鹿市の双六地区のナマハゲを紹介している。双六地区はおよそ60世帯の小さな漁師町で、住民の多くは65際以上。若者たちは就職や結婚などで町を出ていってしまった。「泣く子はいねが〜」で知られるナマハゲだが子どもがいない。これでは商売上がったりである。おまけにナマハゲ役の担い手は全員60歳以上と高齢化が著しい。だからといって長らく続いているこの行事をおいそれと取りやめるわけにはいかない。そんな中、双六地区のナマハゲたちはどうしているかをレポートしている記事だ。大晦日の夜、息子や娘夫婦が子どもを連れて帰省している家には、「泣く子はいねが〜」だが、単身もしくは夫婦だけで暮らしている高齢者宅を訪れたときの様子が面白い。なんと「元気だか?」と声をかけたり、長寿の秘訣を聞いたりするのである。こうして、高齢化が進んだ町でもナマハゲは存続しているわけだが、やはり担い手の高齢化は気がかりなところだ。10年後、いったいどうなってしまうのであろうか。


 こうした伝統行事は、その存在をただ保存さえすればいいというものではないだろう。なぜなら、どれも本来はなんらかの意味があって行われてきたものだからである。たとえばナマハゲは「年の節目になると怠け心を戒め、無病息災、田畑の実り、山の幸、海の幸の恵みをもたらすために、山から降りてくる来訪神」であり、「新年を迎える祝福や子どものしつけの役割」もある(『YOKAI NO SHIMA』「キャラクターとグループの解説」より)。先の双六地区では、高齢化によりナマハゲから子どものしつけという役割が消えつつある一方、漁師町ということで、海の幸に恵まれるようにという側面は健在であり、お年寄りの長寿=無病息災を願うことも重要な意味を持つようになった。伝統行事が形骸化し、社会との接点が薄れて単なる観光の一要素になってしまうよりは、双六地区の例のように、時代や環境を鑑みつつ継続・実施してゆく方が、人々の生活や社会の中での大切な行事という本来的な意味が損なわれずに存続できるように思われる。さて、まもなく節分。炒った大豆で追い払われる赤鬼は「怒り」、青鬼は「悲しみ」、黄鬼は「悩み」という人の感情を表しているのだそうだ。これはとりもなおさず自分の内面との対話にほかならない。なるほど福を招きれるには、裡なる災いのもとを追い出さねばならない。つまり福のためのスペースを用意するというのが節分ということになるのではなかろうか。私はといえば、豆を歳の数だけ食すのもなかなか大変になってきたので、代わりに神保町の老舗「亀澤堂」の豆大福をいただこうかと思案中。こちらの豆大福は小豆のほかに大豆も使っていて絶品なのだ。