いしいしんじ その場小説「花」②

藤木 洋介 2017.04.13

いしいしんじ その場小説『花』 ②

(前回のお話①は、こちら)


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 とある町の教会で眠っているとき、いきなり近所の老人たちが壇上でうたいだ
したことがある。おおかみは身をおこしてきき耳をたてていた。老人たちは、日
々のくるしみ、日々のよろこびについて、自分たちの信じているかみさまに、ゆ
たかな声でかたりかけていた。教会がふるえ、ガラス窓がきらめいた。おおかみ
の手はゆっくり頭上にあがり、そこにただよっているものをつかむと、左右交互
に口もとへはこんだ。まるで、空中に浮かんだ目にみえないパンを頬張るかのよ
うに。
「じっさい、あんなごちそうは、これまでいただいた試しがないね」とおおかみ
は笑う。「あそこの老人たちは、きっと、あの歌声に乗って、しょっちゅう雲の
上まで、だれかさんに会いにいってるんだろうな」

 もちろん、クルマの運転はできない。足がじょうぶに生まれついて、それだけ
は両親に感謝していた。あるとき、干し草の上にすわってうたっていたら、なま
ぬるい息がほっぺたにかかり、ときどき濡れたなにかが額やあごをなめた。馬だ
った。馬というものをみたことはなかったが、鳴き声やひづめの音で見当がつい
た。おおかみのあとを、馬はえんえんとついてきた。盗んだと思われては、ふく
ろだたきにあうので、おおかみは早々に、おんぼろの宿屋に逃げこんだ。翌朝、
宿の外に出ると、またあのやわらかく濡れたものがほっぺたやおでこをぺろぺろ
となめた。
 おおかみはあきらめて、馬を連れて歩くことにした。
 馬はひとに慣れているようで、背中にギターとかばんを置いたまま、おおかみ
の斜め後ろを一定の距離をとってついてくる。半月、ひと月。馬はおおかみの兄
弟のようになった。
 あるとき、クラクションの音をたてて車が真横からつっこんできた。おおかみ
は真後ろから押され、砂の上に突っ伏した。真後ろで、クルマのボンネットにな
にか重いものがぶち当たる鈍い音がして、それっきりなにもきこえなくなった。
ひとびとが集まってきて、なにかの破片を集めはじめた。
 おおかみは砂をつかんだまま立ちあがり、唾を吐いて、ギターとかばんを手探
りで探した。やわらかい濡れたものに、何回もさわった。ブルースは、生きてい
る暮らしの薄皮をはいだところに、ぱんぱんに充満している。

 空気があたたかくなってきて、ひとびとの声も、それまでの三月ほどとは徐々
にちがってきこえだす。桜の花とやらが、ひらきはじめたんだな、とおおかみに
も見当がつく。酒など一滴も口にしたことのない子どもや若い男女が、軽くシャ
ンペンでもあおったみたいに、半オクターブ高い声でしゃべりつづけている。
 油断は禁物だ。おおかみは肩をすくめ、歩きつづける。どんなところに、ブル
ースの野郎がロープを張って、足をひっかけようと待ち構えていやがるか、わか
んないんだから。
 その夜の演奏は、旧いライブハウスで行われた。「白いりんごの木」というの
が、店の名前だった。「りんごの木ってのは、茶色じゃなくて、白いのかね」お
おかみは店主にたずねた。店主は鼻をふくらませて笑い、「木の幹じゃないよ。
花さ。真っ白に咲くんだ」「ピンクでも白でも、黒でも、俺には関係ないね。食
える実のほうがよっぽどありがたい」
 夕方から店はにぎわった。おおかみの名前は、ブルース好きのあいだではよく
知られているのだった。
 ギターはあいかわらず雷のようにうなり、おおかみは、これまでに会ったおお
ぜいのおんな、おとこ、おじいさん、おばあさんの顔に刻まれていた、ことばに
ならない表情を声に乗せてうたった。この夜も、「白いりんごの木」の店内は、
青黒い薄闇で染まっていった。店に集まった誰も、一瞬も目をステージからそら
さなかった。みな、なつかしく、あたらしく、なじみのある音楽に包まれて身を
揺らせていた。流れ、揺れるブルースは、店に集まったひとびとにとって、揺れ
動き波打つ鏡のようだった。





つづく..........

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【今後の公開スケジュール】
③4月16日(日) / ④4月20日(木)



【現在開催中の展覧会】
4月1日(土) 〜 23日(日) 11:00-20:00<会期中無休>