ハローグッバイ

Satoshi Tsuruta 2017.12.31

いよいよ大晦日。2017年も終わりです。

皆様、いかがお過ごしですか?


この2017年、僕はなぜだか「生」や「死」についてよく考えました。これは自分自身が歳を重ねたせいでしょうか?それとも、池田晶子の本を読んだせいでしょうか?



僕の友人で自分が35歳になったことにひどく落ち込んだ男がいました。村上春樹の短編「プールサイド」に出てくる主人公が「35歳を人生の折り返し地点と決めた」というくだりを読んで「残りの人生の方が少ない」ことを意識したのだそうです。

僕は20代前半でこの短編を読みましたが、落ち込むことは特にありませんでした。僕がまだ若かったせいでしょうか?


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人が生きていく為には「衣・食・住」が必要だと言います。

暑さ寒さから体を守るために着て、飢えないために食べて、雨風に吹かれないために居を構える、といった感じでしょうか。つまり死なないために服を着て、死なないために食べて、死なないために住む、ということです。

しかし僕ら洋服屋が生業(なりわい)にしている「ファッション」は「衣・食・住」に含まれません。死なないために「お洒落をする」ということは基本的にないからです。ファッションは「最低限のライフライン」ではありません。エスキモーが着る毛皮は「衣」ですがオートクチュールのドレスは「衣」ではありません。これは「水」が「食」だとしても「3万円のワイン」が「食」ではない事と同様です。

ではファッションは何のためにあるのでしょうか?




朝、目が覚めて出かける前に鏡の前で身支度をします。シャツの色を決め、ベルトを選び、靴を履きます。

誰もが毎日、当たり前のようにとる行動です。



ここで鏡に映った自分の姿を見ながら、これから会う人のことを少しでも想像する事が「お洒落をする」ことだと思います。


「このシャツを見て、あの人どう思うかな?」「買ったばかりのこのマフラーに彼は気づくだろうか?」「前回あの人に会ったときもこのジャケットを着たから、今日はやめておこう」「彼はブルーのセーターを着てくるだろうから、私は赤いワンピースを着ていこう」


なんでもよいのです。ただ、他人のことを「想う」ということ。
これはなんと幸せな行為でしょうか!





ひと昔前に比べ、世の中には(とりわけ日本には)随分とお洒落な服が増えました。
情報が行き届き、価格競争が起こり、お洒落な服が格段に安く手軽に買えるようになりました。雪山で「死なない」ための装備だったダウン・ジャケットは都会で「お洒落に生きる」ためのデザインに変わりました。

お洒落な服が当たり前になっていくなかで自分はどれだけ人のことを想っているか、という自問自答に明け暮れた2017年。

朝、目が覚めて鏡の前に立ち洋服を選びながら他人のことを想う時間。自分自身が死の危機にさらされていないからこそ持ちうる幸福な時間です。お洒落なものが身の回りに溢れる返ることで、つい忘れてしまいそうになるこのひととき。



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「プールサイド」を読んで落ち込んだ友人。彼もいまでは38歳になりました。折り返し地点はとっくに過ぎてしまっています。

そして今年、彼に娘が生まれました。

生後二か月の娘を連れて彼が僕の自宅を訪ねてくれるというので、僕はシャツを着て、セーターを被り、そしてネクタイを結びました。初めて会う女の子に「ハロー」と言うために、きちんとしようと思いました。着ていたセーターはそっけない古着でしたが、2017年に僕が最も「お洒落をした」のはこの日だったかもしれません。

ファッションは他人に「ハロー」と挨拶をするためにあるのだと僕は思います。ひとりぼっちではファッションが成立しないのはそのためです。誰にも会いたくない日にスカーフを巻く人はほとんどいないはずです。勿論「グッドバイ」と人にお別れするために喪服を着ることも時にはもあるでしょう。それでも、その悲しみから立ち直る為に人は誰かに「ハロー」と言わずにはおれません。


会いたい人がいるという幸せが、ファッションをより豊かなものにしてくれます。



グッドバイ、2017年。
ハロー、2018年。
来年は誰のことを想いながら、どんな服を着ましょうか?

皆様にとって2018年が素晴らしい年となりますように。




Tsuruta