<fennica>が出会った沖縄

私たちの心を魅了してやまない
沖縄独自の風土を感じさせる美しい品々
明るく豊かな自然環境から生みだされる工芸品同様
作り手もまた力強く、健康的で大らか
人が人をつないで生まれた
沖縄の作り手と<fennica>のつながり
手に取り、使う人にも伝えたい
沖縄の作り手をご紹介します


<fennica>が出会った沖縄

私たちの心を魅了してやまない
沖縄独自の風土を感じさせる美しい品々
明るく豊かな自然環境から生みだされる工芸品同様
作り手もまた力強く、健康的で大らか
人が人をつないで生まれた
沖縄の作り手と<fennica>のつながり
手に取り、使う人にも伝えたい
沖縄の作り手をご紹介します

4つの窯元からなる読谷山焼 北窯の『松田米司工房』日常で使いやすい器の人気もさることながら、窯主である松田米司さんの焼き物に対する想いや人柄にひかれ、独立志望の職人が集っています。7年ほど前からは、実の息子である健吾さんも修行の道に。伝統を大切にしながらも柔軟な発想のものづくりが行われています。

故きを温ね新しきを知ること

琉球王国の時代から続く沖縄の焼き物。その伝統を受け継ぎながらも、「松田米司工房」ではよりいいものを作りたいという想いをもって仕事を続けています。「古いものを見ながら新しいものを作っていく、温故知新。昔からあるものだけれども、いいものが作れないかと挑戦の日々。時代によって“使いやすい”は変わるものなので、すばらしいと価値を認めて残すべきものと、変えた方がいい部分を区別していくということをしないといけないと思って。」健吾さんも親方同様に「自分が好きな古い沖縄の焼物を参考にしつつも、ただコピーするのではなく、現代に合うようにアレンジすることを大事にしたい、そこから昔の沖縄というものを感じとってもらえれば。」と語り、日々研鑽を積んでいます。

使うために作ること、選ぶこと

近年のやちむん人気の中、北窯の名前は今や全国区。その人気は若年層にも広がっています。自身と近い世代の人たちが手にしていることについて健吾さんは「今人気だから、"ブランド"だからと使うのではなくて、一緒に生活する道具としてこれがいい!と思い、これが使いたいから使うという風に思ってもらえたらうれしい。」と語ります。

親方自身も「やっぱり使ってもらうために作っているんですよ。それが大前提。その中で昨日より今日作るものがよりいいものに。」と努めているのだそう。大らかな絵付けが施された器は使い食卓に並べるだけで心をパッと明るくしてくれるものばかり。「自分の仕事は器にも出るものだと思います。楽しいと思って仕事すれば、それが元気な雰囲気にあらわれる。

そこから使いたい、作りたいと焼物に興味をもつ人が増えてくれば。」と健吾さんは力強い一言。「焼物って難しくないんだよという思いが一番。もっと焼き物が普及する働きかけをしていきたいし、今後も自分の仕事を弟子たち教えて、次の時代を担えるような焼物をやっていけるようにしたい。」と米司さん。沖縄の焼き物の系譜が、先を見据えたものづくりの先に続いていきます。

双子の兄である松田米司さん、宮城正亨さん、與那原正守さんとともに北窯をつくり、今や沖縄を代表する作り手である松田共司さん。沖縄の窯では珍しく、成形は共司さんが担当し、奥様が絵付けを施す珍しいスタイル。確かな技術の上で、色鮮やかでのびのびとした絵付けが花開いています。

使ってくれてありがとうの気持ち

兄である米司さんの工房同様、沖縄では絶大な人気を誇る共司さんの器。さまざまな作り手がそれぞれのスタイルで作陶する中で、共司さんが作るものは昔ながらの意匠を継承する伝統的な作風が多くあります。「本来ならば人というのは勉強したりしながら、新しいものに挑戦していくじゃないですか?そういうのが自分ではあまりできなくて(笑)技術がブサイクでもいいから沖縄の土と向き合うことが宿命というか。内地のいいかたちやものを取りいれたらもっと楽にできるのにと思うこともあるけどね。だから本当に使ってくれてありがとうなんだよね。使ってもらっているというのは本当にありがたいことで、自分が正解を求めながら作っているものを買って使ってくれる人は賛同者だから。」

沖縄の土と向き合うということ

鉄分を多く含んだ赤土で作った粘土をベースにして、白土で化粧掛けをほどこすのがやちむんの大きな特徴。共司さんは「土が一番で次が焼き、そして最後に色・形。色や形は人為的なもので土は、人ではどうでもできないもの。」と土に対して並々ならぬ思いを持っています。それは自分という人間を見つけてくれたのが沖縄の土だから。

「焼物を始める前、作ったり描くのが好きというのが本能的にあったから、沖縄を離れてデザインを学びに東京に行ったけど、自分という人間がなんなのかという思いがずっとあった。沖縄の文化を勉強して、焼物をつくったら沖縄の人になれるんじゃないかと思って、石嶺窯の大嶺實清先生のところに弟子入りした時、先生が"沖縄の人は沖縄の土で器を作り、沖縄で育った食材を調理して、この器に乗っけて食べるんだ、それが素晴らしいんじゃないか”と話すのを聞いて、俺が求めているのがこれなのではないかっとすごく感動して。

そこから40年。焼物人生は自分にとってもよかったなと思います。」と振り返ります。土と向き合い、信頼して心を注ぐこと。それが次の世代へと受け継がれていくことを共司さんは願っています。

1979年に読谷村に窯を開き、作陶する山田真萬さんは、日本国内をはじめアメリカなどでも個展を開催する、沖縄を代表する作り手。伝統を踏まえながらも、独自の感性から紡ぎだされるダイナミックな筆づかいと目をひく色彩、沖縄のエネルギーがそのまま湧いて出てきたような作品は日々の暮らしに彩りを与えてくれるものばかりです。

自然の営みは人知外の創造の宝庫

両親が画家で幼少期から近くに絵筆や粘土があったため、遊びの中から興味をもったのが焼物。以来50年作陶を続ける真萬さんの代名詞ともいえるのが赤絵。手間がかかる分他のアイテムより金額は高いが、色彩やモダンな雰囲気を本能的に感じる人が多く<fennica>でも高い人気。真萬さんの赤絵ファンが数多くいます。

そのインスピレーションの源は沖縄の自然風景から。「例えば沖縄にはクロトンという赤や黄色の葉の植物があって、枯れていくと黒くなって真っ赤な斑点が出てきます。それを見ていいと思ったら同じことをやる。黒の横には真っ赤に丸、モダンだねと。だから常に自然界のそういうところを記憶しておくんです。」そうして生まれる器から自然とにじみ出る豊かさに、人々は魅了されるのかもしれません。

日々培うものから出る壮大な世界観

赤絵と同様に、ものづくりの根底にあるのはこれまで日常で見たもの、感じたもの。「掃き掃除は大事だよとよく弟子に言うんです。庭を掃除していたら葉っぱが落ちている。その日によって風の動きが違うから、どう掃けばいいか考えると葉っぱの動きも変わる。ほうき目の入れ方によっては雲や波の模様が残ったりする楽しみも。あらゆる物がその中で見られます。それが記憶に入って、作るものに影響を与えるんです」

「僕のなかでは発想というものはないんですよ。閃きとかもあるようでない。見て感じたものが欠片みたいに蓄積されると、ものを作る時にスーッと出てきて影響してくる。だから、お前達、ぼんやりしていたら何もでてこないよってね(笑)絵も何回も繰り返し描いてみる、繰り返し描き続けるとそこに無意識さが入ってくる。

意識のなかでやってはダメで、筆はこう動かすとか、考えることなく身体が覚え、動き始めたときに先に進むことができると思う。」
どこか哲学的で、アーティスティックな真萬さん。森羅万象を感じる、唯一無二の世界感がここにあります。

琉球王朝時代から歴史を紡ぐ金細工(かんぜーく・くがにぜーく)。1509年に王府の命で中国に渡って金細工の技術を身につけ、王府御用達職人となった初代に端を発する『金細工またよし』では、ジーファー(髪飾り)や房指輪、結び指輪など、王朝時代から続くかけがえのない形や文化を七代目・又吉健次郎さんが守りつづけています。

琉球文化、工藝文化の灯火を守る

『金細工またよし』を訪ねて作業場を見ると真っ先に目に入るのが、よく使いこまれた道具の数々。そのほとんどが、戦後空白の時間があった金細工作りの復活に尽力した父である六代目の誠睦さんから受け継がれたものです。「後継者に困っていた時、親父が亡くなったら使っている道具はどうなるんだろうと思ったんですよね。道具というのは使わないと意味がないもの。そして親父の仕事は作ったものがずっと形として残っていく仕事。琉球の文化の一つであり、工藝文化の一つなのだから、伝えていくために誰かがやらなければならないと思い、親父に“僕がやるよ”と。」そうして40歳の時、それまでは別の職に就いていた健次郎さんは、歴史を背負っていく覚悟をして金細工の道に入りました。

金細工が結ぶ人との出会い

「僕はここに座っていて、ここから出たことがないんですよ。ここに道具があって、ここで打って、火を通して、水をつけてこの繰り返し。外に一歩も出ないで完成するもの。だから僕は人との出会いそのものがこの仕事だと思っています。わざわざ工房を訪ねて求めてもらって、仕事が成立しているから、自然と気持ちが入っていくんですよね。」
自分が作るものが素晴らしいのではなく、人との出会いが生まれる仕事が素晴らしいのだと謙虚に話す健次郎さん。

<fennica>の定番の商品として扱っている結び指輪は、一度途絶えながらも芹沢銈介や棟方志功が持っていたスケッチなどから父・誠睦さんが復元したもの。銀線が重なるその結び目は、男と女の出会いと絆を表しているかのようでペアで求める人も多数。

「結び指輪は2本の銀の輪を結んでいくという一つの縁結びだと思っています。"想いかながなと 今宵結ばれて ちむちゅらく花のさかちたまう"。これは相思相愛で結ばれたんだから、綺麗な花を咲かせてくださいという意味。琉歌にのせて、こういう言葉をお客さんに言い添えたいですね。」指輪を目にして、これを身に着けたいと実際に手にするのもまた“結び”。人の手に渡って、残っていく“結び”を糧に健次郎さんは今日も仕事を続けています。

明治の中頃から始まり、戦後は駐留米軍が飲んだコーラや酒の空瓶を原料にして作られてきた琉球ガラス。その歴史を今に伝えている一人が『ガラス工房 清天』の松田清春さん。熱を放つ炉に向かい、吹き竿に水あめ状のガラスを素早くからめとって、美しく成形されたガラスから手づくりならではのあたたかみ、力強さを感じることができます。

昔ながらの琉球ガラスであること

廃瓶を利用した再生ガラスから始まった琉球ガラスですが、今日では原料ガラスを仕入れて作る工房が多くなり、かつての姿が失われつつあるのが現状。そんな中『ガラス工房 清天』は本来の琉球ガラスに立ちかえったガラス作りを行っています。

「何軒かの工房での修行の中では、窓ガラスや原料ガラス、クリスタルガラスなどいろんな原料にふれてきました。それでもやっぱり、琉球ガラスは廃瓶から始まった歴史があるのだから、自分がやる時は瓶からはじめようという思いに。以来20年、泡盛の瓶を使って作っています。」クリアやモスグリーン、茶など、素朴な色合いや味わいは再生ガラスそのままの色。紫や青などのガラスの場合には、空瓶に少量の薬を混ぜたものを使って色を出しています。

機械には出せない手作りのかたち

工業製品には決して出せない手にしっくりとなじむ厚みや重み、宙吹きから生まれる大らかさが清天のガラスの魅力。「昔は機械で作るものよりも薄くて綺麗なガラスを作りたい、"機械を超えてやる"と思っていました。そんな時に取引のある業者さんから“薄いものは機械に任せて、手作りを感じられる、手で安心するようなものを作ってくれないか“と言われて。そこからは割れにくくて、厚みを持たせるように作っています。」心がけているのは自分の作品としてではなく、シンプルに使う人のことを考えたものづくり。「1個使ったら、5個、10個と同じものが欲しくなる。使いやすく、使い続けたいと思えるものを作りたい。」その信条がリピーターを生み、支持される所以なのかもしれません。

技術の継承は自分の仕事の更なる成長

松田さんは工房を立ち上げ以来、ガラス作りをしたいという志を持つ人を育て、これまで5人の職人が独立し、各地で仕事をはじめています。「うちでは技術を覚えたら独立しなさい、というシステム。教えるの好きで、なぜ教えるかというと、自らが予習・復習してうまくなっていくため。この教え方が悪かったのかなとか、教え方もまた学習して、自分の成長につながるから。だからほかのガラス工房から作り方を聞かれても教えます。自分が作るものを越えられない自信があるし、それが技術ってものじゃないかな。」松田さんの、仕事への確固たる自信とあくなき向上心が、琉球ガラスの伝統を支え、人の手から手へと伝わり、さらに後世へと続いていくのです。

谷口室生さんは読谷山焼 山田真萬さんのもとで修行後、2010年に名護市に自宅兼工房の『室生窯』を開窯。自身が魅せられた沖縄の焼物の良さを継承しつつも独自のセンスを活かした器は晴れやかでモダン。沖縄の若手作陶家として首都圏でも人気が高まっています。

考えすぎず自分に素直であること

民藝が好きな画家の父について、幼いころから窯元や骨董店を訪ね、自然と焼物に興味を持っていた谷口さん。アメリカの大学で焼物を専攻して帰国した後、26歳で山田真萬さんの工房に入り、修行を重ね、独立して8年。「読谷で学んだことをまだ消化できていない部分もあり、今は人と違うことをやる、でもしっかり骨董の形を写して自分のものにする段階。」と謙遜して語る谷口さん。ここ数年は公募展などに作品を出品しており、昨年の国展に出品する際、「技術をワンランク上に、そして沖縄の仕事を表現しなくてはいけないと考えていたのですが、(松田)共司さんから"国展は好きなことをやれ、沖縄を気にしなくていい"と言われて」その想いで出したものが初入選を果たしました。

目指す自分のものづくりスタイル

発色のいい呉須や飴釉の大胆な絵付け、使いやすい造形が谷口さんの器の真骨頂。その時々で生まれる新しい品に出合えるのも楽しみのひとつです。「年をとったらできなくなる表現も多いと思うので、今が最後のチャンスだと思ってやりたいことに挑戦しています。」と、現在はガス窯を使って月に4~5回というハイペースで窯焚きして腕を磨く日々。

現在はガス窯を使っての焼成ですが「蒔窯をずっとやりたいと思ってますし、今後はものを作るスタイルをもう少し自分がやりたい方向にして行きたいですね。2ヶ月に1回、窯を焚くというペースで、しっかりと仕事に取り組みたい。」と語り、自分が納得できるものづくりを模索しています。

読谷山焼 北窯『松田米司工房』で修行後、今帰仁村の自然豊かな土地に窯を開いた『陶器工房 風香原』の仲里香織さんは注目の女性の作り手です。読谷で培った伝統を大切にし、使ってもらうということに重きを置いた普段使いの器たち。力強さの中にあるやさしい雰囲気に惹かれ、仲里さんの器を求める人が増えています。

負けず嫌いで歩んだ焼物の道

飛び込みではいった県内の陶房で5年、松田米司工房で8年と長い下積みを経て独立した仲里さん。土づくりからすべて手作業で行う大変な仕事であることから、途中で修行を諦めて辞めてしまうという人も多い中、「負けず嫌いなので。一つ一つステップを踏んでいくのは楽しかったですよ。毎日いそがしくて、やることが前にあってでもゴールは見えないなと。これをやりたい、あれをやりたい、何かを身に付けたい。」と前向きに、実直に腕を磨いてきました。古いものを見て、そこから感じた自分なりの器を作りなさいという米司さんの教えやものづくりのスタイルから学ぶことが多く、「育ててもらって本当にありがたかった。」と修行時代を振り返ります。

作るものは素の自分

「自分にはない、使う人や買ってくれる人の“好き”という感覚を、どう自分が捉えていくかということが面白いなという気持ちを独立してから味わっています。」と話す仲里さんの絵付けからは、リズミカルで爽やかなほどのいさぎよさを感じます。

「オリジナルを出さないでおこうと思っているのですが、線や形に出ているのがびっくりします。素の自分がいるような気がして恥ずかしくなりますよね、同じ唐草一つ描いても、全部自分のリズムが出ているというか(笑)。」そんな中でも「何か新しいものに出会って、好きと思えたらその好きを消化して自分のものにできたら。」と貪欲に自分らしいスタイルを追求する仲里さん。「今回初めて挑戦した赤絵ももっと頑張りたい。」と、今日も意欲的に作陶を続けています。

information

『2018 OKINAWAN MARKET』

本特集でもご紹介した作り手の作品をはじめ、沖縄にまつわるクラフトを幅広く展開する"2018 OKINAWAN MARKET"を開催します。

開催期間:2018年3月2日(金)〜3月11日(日)
開催店舗:インターナショナルギャラリー ビームス(原宿)2F
イベント詳細はこちら

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