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vol.01
01
益子と濱田窯益子と濱田窯

mashiko and hamada-gama

写真:湯浅 亨/文:行方 淳/編集:小澤匡行

美しい土地にある、
美しいものの魅力や生い立ちを、
フェニカの視点で読み解く「fennica things」。
第一回は、益子です。
色々な要素が折り重なり、調和した益子焼の魅力は
一つの側面からでは語れません。
その象徴である濱田窯とともに、
今改めてその魅力を振り返ってみたい。
なぜ益子が、こんなに多くの人に愛されるのか。

益子と濱田窯
part.

Part 1

作家性を尊重し広く
受け容れる
懐の深い益子焼

民藝の代表的な存在として知られ、人気の高い益子焼。ですが、何をもって益子焼きとするか、その定義を説明するのは実は簡単なことではありません。

益子で作陶が始まったのは江戸時代後期と言われていますが、『益子焼』という名前で親しまれるようになったのは近年のこと。当初は今のような厚手でぼってりとした作りではなく、薄手でさっぱりとした焼き物が多かったと言われています。というのも、当時は焼き物=瀬戸物(セトモノ)と言われるほど、愛知県瀬戸市の『瀬戸焼』がとても人気でしたが、それを仕入れるのはとても大変なこと。だったら似たものを関東で作ろうじゃないかということで、益子の窯を利用していたのだそうです。

しかし、それではただのもどきで終わってしまうと異を唱えたのが濱田庄司でした。かのバーナード・リーチに誘われてイギリスに窯を作ったのち、日本での創作活動の場として益子を選んだ濱田氏は、益子の土と釉薬を使った新たな表現を模索。益子の焼き物にオリジナリティ=芸術性を取り入れようとします。代々その土地で作陶を続けてきた職人には煙たがられることもあったようですが、若い世代は濱田氏を支持しました。時は柳宗悦率いる民藝運動真っ只中。その追い風もあって、濱田氏が提案する益子の焼き物は次第に『益子焼』と呼ばれるようになり、新しい地位を確立していったのです。

その後、多くの作家が益子で作陶を開始しますが、その作風は自由なものでした。伝統に固執することなく、デザインに制約があるわけでもない。『益子焼』の礎は確かに濱田庄司が作り上げたものですが、重要なのは形式ではなく心構え。それぞれの個性を許容する懐の深さが益子にはありました。

現在、益子をベースに活動をする作家は多くいますが、中には益子の土や釉薬を使わない人もいます。それでもここから生まれた作品は、益子焼と言えます。保守性が生む安定感と革新性が生む活発な創作。その二つがうまく交わって一つの世界観を形成しているのが、益子の特徴であり魅力なのです。

Part 2

濱田友緒さん、
今の益子ってどうですか。

さて、益子の象徴的な存在である濱田窯ですが、現在は3代目の濱田友緒さんが引き継いでいらっしゃいます。祖父である濱田庄司さんのこと。現在の濱田窯のこと。益子のこと。お話を伺いました。

「濱田窯は私で3代目ということになりますが、継承しなければいけないという使命感があったわけではありません。西日本にある有名な窯元ですと何十代も続いているところがありますし、きちんと名前も継承されていますが、濱田に関しては、言ってしまえばたまたま3代まで陶芸家が続いたという感じでしょうか(笑)。それぞれの代で作風も違い、継承するというよりもむしろ同じものを作らないようにしている。職人ではなく、作家として成り立つためにはオリジナリティが重要ですから」。

技法と材料は受け継ぐが、表現の方向性は独自性を求める。姓は同じでも、それぞれが独立した作家という考え方なのだそう。ところで祖父の庄司さんはなぜ益子を創作の場に選んだのでしょう。

「それはイギリスでの生活が影響をしています。ロンドンの南に位置する場所に、ディッチリングという田舎町があるのですが、そこでの生活スタイルに感銘を受けたそうです。自然が多く残る田舎町で健康的な生活を送り、無理なく仕事をしながら、創作活動を行う。それでいて車を使えば2時間ほどで都心にも行ける。この完璧にデザインされた生活バランスが理想的だと感じたそうです。日本に戻ってきた庄司はそれに類似した土地を探しますが、益子は立地的にぴったり合った。純朴な田舎町で、もともと窯もありましたし、都心まで車で2時間ほど。ディッチリングに重なる好条件だったというわけです」。

そこで、濱田窯を通じて、益子焼の礎を築いた?

「庄司は自分が益子焼の文化を築いたというつもりはなかったようです。むしろ『益子のおかげで自分がいる』と常々言っていましたから。自分という外からきた人間を受け入れてくれた益子に感謝していたのだと思います」。

濱田窯は益子焼の象徴的な存在になりましたが、あくまでその一部であるということ。ディッチリングでの生活がごく自然なものだったように、益子の焼き物文化のあり方を、濱田という一つの形式に当てはめてしまうことが嫌だったのかもしれません。

「余談ですが、濱田庄司が全盛の時に益子の陶芸家協会を作ろうという話が持ち上がったらしいんです。しかし庄司は『それは益子らしくないからやめよう』と言ったそうです。『そこにピラミッドができてしまったら益子は益子でなくなる』と」。

それもまた今の益子の文化を形成する分水嶺的な出来事だったかもしれません。では、当の友緒さんは、現在どんな目線で創作活動をされているのでしょうか。

「私は大学で彫刻を学んでいたのですが、当時はどちらかというと現代アートに傾倒していたんです。その時に工芸や民藝というものを外から客観的に見ることができたのですが、それらが内向きになってしまっていることに気づきました。そしてそれを崩さなければという思いが湧いてきたんです。“職人”が黙々と原産品を作るのが民藝であって、“作家”が作るものではない。そうきっぱり線を引いた。私個人としては作家として活動をしていますので、彫刻で得た造形感覚を活かしながらより自由度や創造性の高い作品作りを目指しています。当時、周りは『いきなりどうしたんだ!?』って感じで驚いてましたけれど(笑)」。

デザイナーのJ.W.アンダーソンが<ロエベ>のディレクターに就任しリブランディングを図った際、その記念すべきコレクションのひとつの象徴として濱田友緒に作品制作を依頼したのも、その創造性を評価したから。また一つ、益子焼が新しいステータスを獲得した瞬間でした。

「<fennica>のディレクターであるテリー・エリスさんと北村恵子さんもまた、我々を深く理解してくれる人たちです。お二人の見識の広さ、民芸に対する理解の深さにはいつも感心させられます。<fennica>で継続的に取り扱っていただいたおかげで、濱田窯、ひいては益子焼のファンが若返ったと思います」。

民藝という大きな括りの中の一つとして捉えられがちな益子焼ですが、実際はそうではない。本来の姿としての多様性のある益子焼を楽しんで欲しいと友緒さんは言います。

「いろいろなものを使って欲しいんです。そうすると作品それぞれに違った個性や手仕事の温もり、面白さがあることが感じられるはずだから。様々な益子焼を通して、充実感や幸福感を得ていただければ嬉しいです」。

Part 3

濱田庄司登り窯
復興プロジェクト

そんな友緒さんが発起人となり取り組んでいるプロジェクトがあります。それが『濱田庄司登り窯復活プロジェクト』。震災からの再建を果たした濱田庄司記念益子参考館内の登り窯に、実際に火を入れて稼働させようという試みです。

「益子を拠点に活動する作家に参加を募り、40年ぶりに登り窯に火が入ったのが2015年のこと。その時はうまくいくかどうか全くわかりませんでしたが、素晴らしい結果と経験を得ることができました。おかげさまで今年の2月には第2回目を実施することができ、さらに多くの作家に参加していだけました。これだけ大きな火を使って焼くということはなかなかありません。ガスや電気で焼くのとは全く違いますし、普通の窯ともやはり違う。何より、これに取り組む際の皆さんの気持ちが違うと思うんです。このプロジェクトを通して、手仕事や芸術表現の充実を図るのが我々の目的です」。

2回目となった今年の復活プロジェクトには、笠間からも多くの作家が参加。回を追うごとに盛況さが増しています。益子の過去、現在、未来をつなぎ、新しい可能性を切り開いていく。濱田庄司が残した進化することへの意志は今もそこに息づいていました。

作家紹介

濱田庄司登り窯 復興プロジェクト

  • 加守田 太郎

  • 額賀 章夫

  • 榎田 智

  • アンドリュー・ゲムリッチ

  • 岡田 崇人

  • 佐川 義乱

  • 木村 文子

  • セレン のあ

  • 大塚 誠一

今回、濱田庄司登り窯復興プロジェクトを通して多くの作家さんにお話を聞くことができましたが、みなさん声を揃えて言うことは、いかに益子焼が自由度の高いものであるかということ。そこには武骨さがあり、洗練性があり、古典的な表現もあれば、モダンであったりもする。だけどそこには「益子」という統一された世界観がある。とても奥深い文化です。皆さんもぜひ、自由な目線で益子焼きと接してみてください。あなただけにしか見つからない、新しい発見があるかもしれません。

写真:湯浅 亨/文:行方 淳/編集:小澤匡行

『濱田窯・在る日の益子』

- 濱田庄司登り窯復活プロジェクトの器たち -

人間国宝の陶芸家、濱田庄司が生前に使用していた登り窯に火を入れる”濱田庄司登り窯復活プロジェクト”。2015年の開催に続き2回目となった今回は、益子市に加えて、益子焼とゆかりの深い笠間市の陶芸家も参加。さらに広く深い交流が行われる場となりました。
今回<fennica>ではプロジェクトに参加した一部の作家の作品を「BEAMS JAPAN」で販売します。期間中は、濱田庄司・濱田晋作・濱田友緒の作品や、<濱田窯>に眠っていたヴィンテージアイテム、さらに<fennica>が特別にオーダーした別注アイテムも同時に販売します。是非この機会にご来店ください。

開催期間:2018年4月27日(金)~5月6日(日)
開催店舗:「BEAMS JAPAN」5階 fennica STUDIO
取り扱いアイテム:濱田庄司登り窯復活プロジェクトに参加した12名の作品。
濱田庄司・濱田晋作・濱田友緒。<濱田窯>ヴィンテージ。<濱田窯 × fennica>別注アイテム。(その他、益子で活動されている作り手の作品、木漆工芸家松崎修、大誠窯大塚誠一、室田窯など。)

美しい土地にある、美しいものの魅力や生い立ちを、
フェニカの視点で読み解く。

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濱田庄司登り窯 復興プロジェクト

作家紹介

加守田 太郎

1963年益子町生まれ。高名な陶芸家であった父・加守田章二さんの影響を受け、1983年作陶を開始。現在も全国各地で個展を開くなど精力的に活動中。「図形を書くのが好き」という加守田太郎さんの作品は、青を基調にした独特な絵柄が魅力的。子供のために作ったという益子焼のミニカーも人気。

額賀 章夫

1963年生まれ。「N. ceramic studio」主宰。東京造形大学でデザインを学び、笠間の向山窯で修行したのち独立。1998年に笠間焼の「伝統工芸士」に認定される。丸みのある器に鎬を削る「プリーツワーク」と呼ばれる鎬模様が定番。どっしりとした安定感がありながら繊細なデザインは海外でも評判。

榎田 智

栃木県芳賀郡にあるえのきだ窯の5代目を奥様とともに担う智さん。先々代が益子で展開していた急須が有名。今もその基本的な形は継承しながら、現代の生活にも自然に馴染むデザインを提案。急須を中心に陶版や片口などラインナップも幅広い。

アンドリュー・ゲムリッチ

1967年アメリカ・ミシガン州生まれ。早稲田大学の留学を経て、1991年に来日。1994年から力石俊二氏に師事し翌年に独立。自分だけの粘土を探し、釉薬もオリジナルで配合するなど、ほかにはない作品を追求。手作業のぬくもりが強く残る作品を作り出している。1996年第一回益子陶芸展浜田庄司賞受賞。

岡田 崇人

1974年生まれ。大学卒業後、濱田庄司に師事した陶芸家であり、人間国宝として認められる故・島岡達三氏の門に入る。掘った部分に泥を埋め込む象嵌(ぞうがん)という技法や、表面を削り異なる色を出して模様を浮かび上がらせるかき落としという技法を展開する。

佐川 義乱

1991年生まれ。独立して2年のニューカマー。まだオリジナルの作風は模索中だが、完成度は十分。伝統的な中にも若さのある、新しい益子のデザインを感じさせると各方面で評判を獲得している。今回は中でもスリップウエアの器をピックアップ。

木村 文子

大阪芸術大学で陶芸を学び、現在は益子で陶芸家として活動。キャリアも長く、濱田友緒さんをして「独自性もありながらとても益子らしい作家」と言わしめる人。表現の幅も広く日常使いできる作品はとても人気が高い。

セレン のあ

1978年生まれ。笠間生まれ、笠間育ち。イギリス人陶芸家の父の影響を受けて作陶の世界へ。伝統的な技法に敬意を払いながらも、オリジナルの釉薬や作風を追求。バーナード・リーチの作品も研究しながら、民藝の新しい可能性を模索中。

大塚 誠一

1981年生まれ。百数十年前の開窯以来、代々登り窯のみを使い続けてきた大誠窯の7代目。信楽や常滑などを回りながら、最終的には丹波の前衛陶芸作家、柴田雅章氏に4年間師事。古陶磁や民藝にも精通し、独自性の高い力強く味わい深い作風が人気を集める。

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