錬金術からニューエイジへ––––ゴードン・マッタ=クラーク展(中篇)

(前篇はこちら

 ゴードン・マッタ=クラーク展の公式図録で、平野千枝子は「ゴードン・マッタ=クラーク 空間のなかの変容」の中の「1 住まい」において「錬金術 空と大地をつなぐ樹木」という見出しを立ててマッタ=クラークと錬金術との関連をコンパクトにまとめている。マッタ=クラークの初期の素描および《ツリー・ダンス》(1971)にみられる植物、樹木、あるいは上昇と下降のモティーフといった例を挙げたうえで、「マッタ=クラークの蔵書は錬金術に関する書物を多く含み、特にカール・ユングの『心理学と錬金術』には熱心な読書の形跡が見られる」(公式図録 P. 245)と記している。また、2012年から2016年に行った「ゴードン・マッタ=クラークの作品と1970年代の自然観」と題した研究の成果報告書(2017)の中では「彼は、土壌から水や鉱物成分を吸い上げ、上に向かって伸び、環境に影響を及ぼし、また、環境によっては枯れてゆく樹木を、エネルギーの循環のモデルと見なしていた可能性が高い」とも考察している。植物や上昇と下降、そして循環は錬金術において重要なキーワードである。以下、できるだけ簡潔に錬金術について触れていこう。


 錬金術の起源をたどってゆくと「錬金術は自然現象と大宇宙についてこしらえ上げた最古の諸観念と理論にまで切れ目なく遡ることができる」(R・ベルヌーリ『錬金術 タロットと愚者の旅』所収「錬金術の基本要素」)。具体的にはヘレニズム期のアレクサンドリアが発祥とされ、それがイスラム世界に広まり、12世紀に入るとアラビア語で書かれた文献がラテン語に翻訳され、ヨーロッパにも錬金術思想が本格的に伝播することとなって、13世紀と16世紀すなわちルネサンスにあたる時期に最盛期を迎えた。こうしたヨーロッパ系統だけでなく、紀元前のインドにも錬金術に関する記述のある文献が存在したり、中国に「練丹術」があったりするなど、早くから文明が開けたところには錬金術の存在が認められる。


 錬金術という言葉に胡散臭いイメージを持たれる方も多いかもしれないが、錬金術は贋の黄金作りのHow toではない。もちろん、そういった技術的な側面に注目した人々がいなかったわけではないし、実際、錬金術は単なる思索でなく「作業(opus)」が欠くべからざるものであったのだが、本質的な部分でいえば哲学であり、不完全なものから完全なるものを生み出すとは、人間の精神を低いレベルから高次へと引き上げるということにほかならない。「錬金術の奥義をきわめた最高の道士たちは、むしろ実利に走りやすい化学実験や冶金作業を『へぼ料理』として蛇蝎視していた。錬金術師にとって最大の眼目は、金属を黄金に変える技術そのものではなく、ましてやこの技術を実社会に通用する金銭に替えることではなかった。なによりも低次の金属を高次の金属に変えるという物質変容の過程に、獣性をもって生まれてきた人間が霊性にめざめていく魂の精鍛、錬磨の比喩を見てとっていたのである」(種村季弘『黒い錬金術』所収「錬金術とは何か」)。物質はいわば象徴であって、錬金術の様々な局面を指し示す言葉は、多分に人間の精神的な局面と照応していると考えても差し支えないだろう。錬金術を考えるうえでは、このような精神面と物質面の二重性を見逃してはならない。


 では、実際のところの「作業(opus)」はどういったものであったか。「『作業』は三つの石、もしくは三つの個別作業、もしくは三段階の完成から成っている。第一の作業は、対象が(反復される蒸留と定着によって)完全に浄化されて、純粋なメルクリウス的物質(引用者註:メルクリウスとは水銀のこと)に変容したときに終わる。完成の第二の段階は、同じこの対象が煮沸され、消化(分解)されて、不燃性の硫黄として定着されたときに到達される。この対象が発酵と増殖を通じて『至高の完成』に達し、堅固な、不変の、赤みを帯びたチンキ剤に、すなわち賢者の石に変容すると『第三の石』が出現してくる」(スタニスラス・クロソウスキ・ド・ローラ『錬金術 精神変容の秘術』所収「大いなる作業」)。引用箇所を読んでもなんだかよくわからない(むしろわからなくて当然)と思うが、作業の最初に必要なのは「第一原質(マテリア・プリマ)」(引用中では「対象」と記されている)––––錬金術師によって様々な金属が挙げられていて物質的に特定することが不可能なほどだ––––である。「だが、第一原質が実際には何であれ、錬金術のプロセスではこの未知の原質は当初つねに黒(nigredo)の状態にあると考えられていた」(種村季弘『黒い錬金術』所収「黒い錬金術」)。黒であるところの第一原質が、白化を経て赤化して「賢者の石」となる。黄金の生成が目的であれば、黄化まで作業は続く。こうした作業を行った末に黄金が得られたかどうかは定かではないが、錬金術師たちによるこれらの作業の過程の副産物として、アルコールの蒸留や白磁の製法、白金や火薬の発見がもたらされたという。


 上記の作業で重要なのは、第一原質が何らかの作用を受けて「変容」する、すなわち第一原質の中には次の状態そして最終の状態があらかじめ内包されているという点である。錬金術の象徴として、黒く小さなひと粒にその後のすべてが含まれている植物の種子が用いられるのはまさにこのことにおいてなのだ。「全は一なり、一は全なり」は錬金術の基本的な考え方なのである。


分離、解体、そして結合


 もうひとつ、錬金術の原理で忘れてはならないのは「万物照応」だろう。先に引いたR・ベルヌーリによれば、「地上には天上に対応物をもたぬなにごとも生起せず、その逆も真である」(「錬金術の基本要素」)。より具体的には、以下の通りである。「たとえば、大宇宙の七つの惑星は七つの主要な金属に対応してるが、のみならず人間の肉体という小宇宙のなかの七つの臓器とも対応している」(種村季弘『黒い錬金術』所収「錬金術の変貌」)。天上界がモデルとなり、地上のあらゆる物事が形作られているという発想は、古代中国やバビロニアの頃からあったものだが、錬金術はこれを双方向の運動として捉えた。すなわち「錬金術師たちの考えの独自性は、この運動を可逆的なものと見なして、下から上へ、卑しいもの、病的なもの、不完全なものを手掛かりにして天上的なソフィアに到達しうると考えたことにあった」(「錬金術の変貌」)のである。当然のことながら、地上界の「卑しいもの、病的なもの、不完全なもの」には、完全なるものの種子が含まれていると考えられるがゆえ、運動は可逆的なものとなりえる。そして、完全なる至高の存在の種子たる「卑しいもの、病的なもの、不完全なもの」は、未分化の混沌状態であって、錬金術は大いなる作業を通じてそれらを「分離」「解体」し、「結合」させるのである。


 さて、ここまで錬金術についての概要を記してきたわけだが、これを踏まえたうえで改めてマッタ=クラークの作品を見てみると、錬金術的な考えが随所に盛り込まれているように感じる。120点以上存在するという《木の素描》(1969-)や、大木に縄梯子やハンモック的な布を配した《ツリー・ダンス》には、木=建築物=都市という照応関係を見てとれるだろうし、循環や「全は一なり、一は全なり」の象徴である樹木、植物への関心に錬金術的な視点を見ることも可能であろう。あるいは、ゼラチン状のてんぐさに食物、飲料、菌などを混ぜ込み物質が変容(解体と結合といってもいいだろう)してゆく様子を展示した《ミュージアム》(1970)、冥府下りよろしく都市の地下を探求した《サブストレイト(地下の日報)》(1976)と《パリの土の下(パリの地下)》(1977)および、それと対照的に天空を目指した《ヤコブの梯子》(1977)では、地と天をつなぐ中間的存在としての人の営み––––「錬金術師たちは人間の魂を物質(獣性)と霊との中間存在としてとらえ」た(種村季弘「錬金術とは何か」)––––を作品として提示している。さらに「壊しながら造る」「造りながら壊す」を実践した一連の〈ビルディング・カット〉は、「壊す」と「造る」という相反する物事の結合である。


 錬金術的には、完全を目指す途中段階で必ず黒化すなわち「死」「腐敗」が現れるのだが、これまで見てきた通り、マッタ=クラークの作品の多くにはこうした性質が備わっている。では、なぜルネサンス期に興隆を極めた錬金術が、マッタ=クラークが作品を制作した1960~70年代に参照されたのだろう? それを考えるには、6~70年代の思想的なトレンドを検討する必要がある。具体的にいえば、ニューエイジ思想とオカルト・ブームである。宗教史家のミルチア・エリアーデは、この時代のオカルトへの関心の高まりについて、「キリスト教的伝統を拒否して、個人的ならびに集団的更新を達成する、いっそう広範でいっそう有効と考えられた方法に従うことである。たとえこれらの思想が素朴で稚拙に表現された場合でさえ、そこにはつねにひとつの暗黙の確信がある。すなわち、現代社会の混沌と無意味から脱出する出口が存在し、この出口は、古い尊ぶべき秘法への秘儀伝授を、それ故にその啓示を意味するものである、という確信である」と述べている(『オカルティズム・魔術・文化流行』第四章「オカルトと現代世界」所収「『更新』への希望」)。ヒッピー・ムーブメント~カウンター・カルチャーに端を発するニューエイジについては、後篇にて背景や考え方を追ってみようと思うが、キリスト教と違って包括的な枠組みがあるわけでもなく、団体やグループによって活動内容や信条が多岐にわたるため、概論的な内容にとどまざるを得ない。ひとつ言えるのは、ニューエイジの流行、浸透によって、かつての錬金術が再び脚光を浴びたこと、そしてその大きな要因のひとつが、マッタ=クラークも愛読していた『心理学と錬金術』などのユングの著作であったことである。




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介入が光をもたらす––––ゴードン・マッタ=クラーク展(前篇)

 「今日の芸術は新しい道具なのだ。––––すなわち、意識を改変し、感性の新しい様式を組み立てるための道具なのだ。そのうえ、芸術を実践する手段は根本的に拡がっている。実を言えば、芸術家自身も、この新しい機能(それは明確に表わされるよりも漠然と感じられる場合が多い)に応じて、自意識にかられた美学者となり、たえずおのれの手段や素材や方法に挑戦せざるをえなくなった。『非芸術』の世界––––たとえば、工業技術、商業的な方法やイメージ、純粋に私的で主観的な空想や夢など––––から得られた新しい素材や方法を、ものにしたり開発したりすることが、多くの芸術家の主な狙いのように感じられる場合が、少しも珍しくなくなっている。」


 スーザン・ソンタグは、当時取り沙汰されていた「文学的・芸術的文化」と「科学的文化」についての問題に思いを巡らせた1965年のエッセイ「一つの文化と新しい感性」(ちくま学芸文庫『反解釈』所収)の中でこう書いているが、産業革命以降の芸術を考えるうえで、「科学的文化」やテクノロジーの進歩とそこから派生するさまざまな現象、事象を無視することは到底できないのは改めて申すまでもないだろう。このエッセイを要約するならば、「文学的・芸術的文化」と「科学的文化」との間に溝があると考える人々は少なくないが、実際のところ、これら「二つの文化」は、冒頭に引いた通り芸術が科学的文化を「感性の新しい様式を組み立てるための道具」として活用し、それらは一つの文化として展開しつつある––––主にアメリカの文学作品の多くを除いては––––といったところである。そして、こうした新しい感性を持った「文化的勢力には、ある種の画家、彫刻家、建築家、社会計画家、映画作家、テレビ技術者、神経科医、音楽家、電子工学者、舞踊家、哲学者、社会学者が含まれる。(少数の詩人や散文作家も含めてよい。)」と、ソンタグは述べている。


 現在、東京国立近代美術館でアジア初となる回顧展が開催されているゴードン・マッタ=クラーク(1943-78)は、まさしくソンタグが指し示すところの「新しい文化的勢力」を代表するアーティストのひとりといえるだろう。チリ出身でシュルレアリストとして知られる画家のロベルト・マッタを父に、画家でデザイナーのアン・クラークを母に持つマッタ=クラークはニューヨーク生まれ。1968年、ニューヨーク州イサカのコーネル大学建築学部を卒業したのちもイサカに住み、大学や建設局でパートタイムとして働いた。翌年、コーネル大学で開催された、招待作家が自然溢れる学内で作品制作を行う「アース・アート」展にアシスタントとして参加。同年、ニューヨーク市ソーホーに転居し、芸術家コミュニティへと身を投じて作家活動を本格的に開始することとなった。本展覧会は、1978年にすい臓癌で亡くなるまでのマッタ=クラークの芸術家としての足跡を追ったものである。会場は「住まい Dwellings」「ストリート Street」「港 Port」「市場 Market」「ミュージアム Museum」の5つのカテゴリーに分けられているが、これはマッタ=クラークの作品を考えるうえで重要な「場所」に準じたものだという。なぜ場所が重要か。それはマッタ=クラークの作品の多くが、建造物、土地、空間、隙間、ひいてはそれらを内包する地域や都市と紐付いているからである。以下、展示に関していくつかの事柄を述べていこう。


 まず私たちを出迎えるのは、美術館の前に置かれた《ごみの壁》のリプロダクションだ。これは、マッタ=クラークが街中で集めてきたごみをタールや石膏、セメントで固め積層した1970年の作品《ごみの壁》を、本展のために再制作したもの。マッタ=クラークの死後、《ごみの壁》は展覧会などの機会に合わせ、それぞれの土地のごみを採集して何度か再制作されているそうで、本展バージョンの制作には早稲田大学建築学科の学生たちが携わっている。


 展示スペースに入って、まず目を引くのは段ボールで作られた建築模型だ。これは、マッタ=クラークにとって初の美術館による委嘱作品(シカゴ現代美術館の依頼により制作)である《サーカスまたはカリビアン・オレンジ》(1978)の1/8スケールの模型で、早稲田大学建築学科小林恵吾研究室が制作した(小林恵吾は本展の会場構成を担当した建築家で早稲田大学准教授)。《サーカスまたはカリビアン・オレンジ》は、シカゴ現代美術館が増加する所蔵品のために購入した、美術館に隣接するタウンハウスを別館として改修する際に、マッタ=クラークにプロジェクトを依頼して実現のはこびとなったものだ。「建物の20フィート(約6メートル)の幅いっぱいの直径を持つ三つの円が床を貫いたが、切り抜く幅はそれぞれに異なり、部屋の区切りによっても変化した」(公式図録 P.186)。建物を切り取っているのである。それもちょっとやそっとの切り取り方ではない。この手法は、《サーカスまたはカリビアン・オレンジ》以前にも行われているが、本プロジェクトが生前最後の建物の切断となってしまった。会場には模型のほか、《サーカスまたはカリビアン・オレンジ》を撮影した写真や事前プランなども展示されている。


超新星として輝く建造物


 建物の切断ということでいうと、マッタ=クラークの作品の中でもつとに有名なのは《スプリッティング》(1974)ではないだろうか。ニュージャージー州イングルウッドの一軒家に1インチ(約2.5センチ)間を空けた線を引き、電動ノコギリでそれをなぞって切って、間の構造物を取り除き、家をまっぷたつにしたうえで、土台ブロックの一部を抜いてジャッキで支え、切断した家の片方の後ろ側を下に降ろした。そののち、家の上部の四隅を切断し、それらは《スプリッティング:四つの角》(1974)として美術館などでも展示された。本展でもこの《スプリッティング:四つの角》の現物を見ることができる。ちなみにこの建物はこの地域の再開発計画に則り、同年8月に予定通り取り壊されたそうだ。


 この《スプリッティング》のほか、《ブロンクス・フロアーズ》(1972-73)、《日の終わり》(1975)、《円錐の交差》(同)、《オフィス・バロック》(1977)、そして先に触れた《サーカスまたはカリビアン・オレンジ》など、建物を切断あるいは切り取る一連の作品は〈ビルディング・カット〉シリーズと称されるが、こうした取り組みは、1950年代あたりから発生し、時代が下るにつれて顕在化していったニューヨークにおける都市問題––––郊外化とそれに伴うコミュニティの消失、機械化進行による余剰農民の都市流入、都市に取り残される貧困層など––––が背景にある。ニューヨーク出身でニューヨークで作家活動を行っていたマッタ=クラークにとっては、これらは非常に身近な問題であり、「収益を上げるための暴力的な土地利用の転換や、そのために都合の良い住宅への収容に、疑問を呈していた」(公式図録所収、平野千枝子「ゴードン・マッタ=クラーク 空間のなかの変容」)。〈ビルディング・カット〉は、取り壊されるもの「への」視点だけでなく「からの」視点も変容させるところに醍醐味があり、それを鑑賞あるいは体験(作品の一部は、建物の中へ入ることができた)する人々は、取り壊し待ちの無用だったはずのものに感情を揺さぶられ、各々の記憶にその痕跡を残す。ここでのマッタ=クラークの介入の方向性は「開示する」ものであるがゆえ、不思議と風通しよく感じるのも面白いところだ。いずれにせよ、なくなってしまう前の一刹那、マッタ=クラークが介入し建物や空間を変容させることで、壊される運命の建築物は超新星のごとく最後の輝きをみせ、その光は時空を超えて(この展示のように)私たちのもとへと届くのである。


 〈ビルディング・カット〉以外にも、都市と人の痕跡としてのグラフィティや、マッタ=クラークが友人らと共同運営にあたっていたレストランで、郊外化の弊害としてのコミュニティ崩壊への楽しげで緩やかな批判ともとれる《フード》(1971)など、現代と照らし合わせても古びた印象のないマッタ=クラークの問題意識を見て取ることができる本展だが、私が興味を惹かれたのは、おおむね以下の2つの点についてだ。ひとつは、これまで何度か述べてきた「ゴミ」「無用なもの」を変容させ作品化する、すなわち低次のものから高次のものを生み出す錬金術的アプローチである。これはマッタ=クラーク作品の通奏低音になっていると考えられる。もうひとつは、彼の作品の多くが持つシアトリカルな性格。基本的に万人に開かれた場所である都市や郊外を舞台に展開された、ある種サイトスペシフィックな作品たちは、それらがやがて壊されてなくなってしまう運命にあろうとも、そこにあるうちは鑑賞可能なケースが多かったはずである。つまり誰でも見られることが、彼の作品にとっては重要であったはずで(それはホワイトキューブという限定的な空間で展示することへの問いかけにも通じる)、だからこそ作品とその製作過程––––むしろこの過程こそが作品的ともいえそうだ––––の多くを、マッタ=クラークはビデオに収めたのではなかっただろうか。(後篇に続く)




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キャンプ趣味

 昔から、1930年代から40年代にかけて流行したスウィング・ジャズ(ビッグバンド・ジャズ)を聴くと、実際のところはそれとはまったく無縁なエキゾティシズム、オリエンタリズムのイメージが湧き上がってくる。こうした感覚は、一体何に起因するのだろうかと改めて考えてみたら、『上海バンスキング』にたどり着いた。『上海バンスキング』は、昭和初期の上海を舞台にした斎藤憐の戯曲で、第24回岸田國士戯曲賞を受賞した作品。「オンシアター自由劇場」のロングラン公演作品となり、また1984年と88年の二度にわたって映画化された。


 この物語の主人公の一人、波多野はクラリネット奏者で、妻のまどかとともに日本を離れて上海に向かう(まどかはパリに行くと騙されるのだが)。戦争の足音が忍び寄る日本では演奏することができなくなりつつあったジャズを演るためだ。この頃(設定では1936年)の上海には「上海租界」と呼ばれる外国人居留地が存在していた。「英国、フランスの租界(19世紀後半から解放前まで中国にあった外国人居留地。主権は中国にあったが、警察権・行政権は外国人にあった)があり、バンドといわれる海岸通りには西欧の近代建築が並び、モダンな風俗が輸入されていた。そして日本を含む各国の陰謀が渦巻き、魔都といわれたほどの地下社会が発達し」、また「ジャズ、映画、バレエといったモダンな文化は上海から日本にもたらされた」(ともに海野弘『百貨店の博物史』所収「モダン上海の百貨店」)。引用中に「英国とフランスの租界」とあるが、英国租界は1848年にエリアを拡大し、同年、アメリカも上海に居留地を獲得。1863年にはこれらが合併し「共同租界」となった。この共同租界内で日本人が多く住んでいたエリアは「日本租界」と呼ばれることもあり、詩人の金子光晴、上海で書店を開いた内山完造(神田神保町で中国・アジア関連の書籍を扱う「内山書店」は、内山完造の弟・嘉吉が開業した店)などが居住し、武者小路実篤、芥川龍之介、林芙美子、谷崎潤一郎らが訪れたことでも知られている。


 この『上海バンスキング』、舞台の初演は1979年で、映画化は先に述べた通り1984年、88年と、概ね80年代のことだ(舞台の方は以後繰り返し上演され、2010年にも再演されている)。本作において欠くべからざる要素であるジャズ(作中のジャズはスウィング・ジャズ)は、80年代には「ジャズ」の呼称を後方に追いやったフュージョンが、テクノロジーの発達という追風も受けてメインストリームとなっていた。『上海バンスキング』に見られるようなスウィング・ジャズは、いうなれば時代遅れも甚だしいものだったわけだが、意外にもこうしたスウィング・ジャズはリバイバルしたのである。


 「現在のものはわれわれにとって身近にすぎ、またわれわれ自身の日常生活の幻想に似ていすぎて、そのもののもつ幻想性がわれわれには見えないことがある。だが時がたてば、いまは肩を怒らしていたり幻想を欠いていたりするようにしか見えないものも、もっと高級なものに見えてくるかもしれない。ある幻想がわれわれ自身のものではない場合のほうが、われわれはそれを幻想として楽しみやすいのである」と、スーザン・ソンタグは「《キャンプ》についてのノート」で述べている(『反解釈』所収。以下、引用はすべて「《キャンプ》についてのノート」より)。この「《キャンプ》についてのノート」は、キャンプと称される「感覚」についてソンタグが書き記した、タイトル通りノートのようなテキストである。前段と原註を除き、1から58まで番号が振られており、それぞれはキャンプについてあらゆる角度から考察した内容となっている。上に引いたのはそのうちの30のほぼ全文だ。


 唐突に《キャンプ》という言葉が文中に登場したので困惑される方もおられるかもしれない。簡潔にキャンプについてソンタグのノートからの引用を交えて述べておくと、「キャンプとは一種の審美主義である。それは世界を芸術現象として見るひとつのやり方である。このやり方、つまりキャンプの見方の基準は、美ではなく、人工ないし様式化の度合」であり、「キャンプの本質は、不自然なものを愛好するところに––––人工と誇張を好むところに––––ある」。つまり、あるがままの自然状態ではなく、大げさなまでに不自然で人工的な物事を愛でる感覚といえるだろう。そして内面、内容よりも様式、形式、スタイルを重んじ、一切の政治色は排除されている。また、ソンタグはキャンプ的スタイルの典型としてアール・ヌーヴォーを挙げ、「よくあることだが、アール・ヌーヴォーの作品はあるものを別のものに変えてしまう。たとえば、照明装置が顕花植物の形をしているとか、居間が実は岩屋であるとかいったふうである。著しい例はエクトル・ギマールが1890年代末にデザインしたパリの地下鉄の入口で、それは鋳鉄製で蘭の茎の形をしていた」と述べている。あるものからあるものへ、という交換可能性は両性具有的であり、キャンプのそもそもの意味––––形容詞としてのキャンプは「女性のような男性、同性愛者のような」といった意味である––––と通じているのである。


 なぜ、キャンプについて記してきたかといえば、80年代のスウィング・ジャズのリバイバルは、このキャンプ的感覚が影響しているのではないかと考えたからだ。『上海バンスキング』を例にとると、この作品の舞台が上海であることは再三述べてきたが、上海の租界は英米仏日が「人工的に」作り出した街並みを有する。そんな芝居のセットめいた租界で、アメリカ産のジャズを日本人がアメリカ式のスタイルに則って演奏するのである。ある種の捩れを伴うこの設定は実にキャンプ的ではなかろうか。そうした不自然で様式化したスウィング・ジャズを、当時の我々は新鮮なものという感覚で受け止めていたばかりか、不思議なエキゾティシズムを感じるまでに至ったのだ。そこには当然、時間的距離も重要なファクターとして作用している。再びソンタグの言葉を借りれば「現在のものはわれわれにとって身近にすぎ」るからである。流行という観点から見たら時代遅れのスウィング・ジャズは、時代遅れだからこそ面白がる対象となり得るのだ。加えていうなら、ここに《キッチュ》の存在を見ることも可能であろう。キッチュとは「まがいもの」とか「通俗的なもの」とか「どぎついもの」といった意味で使われる言葉だが、80年代にあっては、上海租界(正確にいうと上海租界から立ち上るイメージ)がキッチュと目されることも少なからずあった。キッチュだからいい、キッチュだから面白い、ということである。


 『上海バンスキング』を一例に挙げたが、これ以外にもアメリカで70年代後半にスウィング・ジャズと南洋的なイメージ、それにディスコ・サウンドを重ねた、ドクター・バザーズ・オリジナル・サヴァンナ・バンドや、そのサヴァンナ・バンドの中心人物だったオーガスト・ダーネル(のちにキッド・クレオール&ザ・ココナッツを結成する)がプロデュースを手がけた、サヴァンナ・バンドをよりディスコ・コンシャスにしたようなエルボウ・ボーンズ&ザ・ラケッティアーズは、スウィング・ジャズの「スタイル」やそれが持つ空気感、イメージだけを掬い取って人気を博した。面白いのは、このようなキャンプ的感覚の音楽を「新鮮なもの」として受け止めて、自作や提供曲にまんま取り入れた日本の音楽家がたくさんいたことである。70年代終盤から80年代後半にかけての歌謡曲の分野でもこの傾向は顕著で、それらは現在「サヴァンナ・バンド歌謡」「サヴァンナ歌謡」などと称されて人気なのだ。


 キャンプという感覚も、キッチュも相対的なものであって、時代や地域が変われば評価は変わってくる。先に引いたソンタグのノートの30には、引用箇所に先立って以下が記されている。すなわち「もちろん、キャンプの標準は変わりうる。これには、時の経過が大いに関係がある」。そして、こうした感覚が起こりうるのは、芸術でも何でも参照可能な要素––––過去の膨大な事象の蓄積––––が十二分に存在していることが前提であり、換言すれば文化的成熟が必須なのだ。ソンタグが「《キャンプ》についてのノート」を執筆した1964年以上に、キャンプ的な感覚で捉えることができる事象が潤沢にあった80年代。思えば80年代はキャンプとキッチュに溢れた時代だった。


 ところで、この3月に発表された<COMME des GARÇONS>の2018-19年秋冬コレクションは、ソンタグの「《キャンプ》についてのノート」に想を得たものだった。人工的で誇張された、芝居がかった事象を愛でるキャンプは、その起源を辿るとマニエリスムに行き着くのはソンタグも明記しているところだが、グスタフ・ルネ・ホッケは著書『迷宮としての世界』の中で、マニエリスムは1520年頃から1650年頃のヨーロッパに顕著な、固有の美術様式であるのみならず、危機の時代に繰り返し立ち現れる精神であると述べている。このことと、キャンプとマニエリスムとの相似性を考えると、<COMME des GARÇONS>が、不寛容なこの時代にキャンプを題材にしたのは非常に興味深いところである。キャンプはトレンドに振り回されることのない感覚であるが、また同時に、「キャンプ趣味とは一種の愛情––––人間性に対する愛情––––であ」り、「キャンプとはやさしい感情」で、何より「キャンプは寛容」なのだ。


*画像は1981年にリリースされた『上海バンスキング 吉田日出子・ファースト』のレコードジャケット(部分)。オンシアター自由劇場版では、吉田日出子がまどか役を演じ、劇中の音楽は劇団員が生演奏していたが、本録音はそのオリジナルキャストが演奏し吉田日出子が歌唱を担当している。余談だが「バンスキング」の「バンス」は「前借り」=「アドバンス」の意。


(メディア向けメールニュース「BEAMS NEWS」Vol.423掲載のコラムに加筆)

映画の中のビスポーク

 「NHKの新日曜美術館で女性アナウンサーのかたわらで、自信なさそうな不安顔で助手役を務める男の俳優が、どうやら三島役らしいのだが、この映画を見ないでも駄目だということが想像できるのは、三島の着用するおそらく英国製の上等な純毛の生地で作られた軍服(ミリタリー・ルックとミニが流行した時代のフランス人デザイナー、クーレージュを思い出させる、どことなく女性的というか中性的なスタイル)には醜い皺一つないのに、姿勢も悪い若い男の俳優の着ている楯の会のデザインを模した服は見るからにスフ入りの生地で、仕立ての悪さが醜悪耐え難い無数の皺になって現れているのを見ればわかることだ」(『澁澤龍彦 ドラコニアの地平』所収、金井美恵子『声の彼方の記憶』)。


 映画『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』(3月30日公開)は、チャーチルを演じたゲイリー・オールドマンが第90回アカデミー賞主演男優賞を受賞した作品だ。ゲイリー・オールドマンはチャーチルのでっぷりとした体型には程遠いのだが、それを辻一弘が特殊メイクでチャーチルに仕立てた。日本では、辻が同賞のメイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞したことが大きく報道されたので、それを通じてこの映画を知ったという方も多いのではないだろうか。


 時は1940年5月。ナチス・ドイツはすでに東欧と北欧諸国を制圧し、ベルギー国境まで迫っていて、その脅威はフランスとイギリスにいつふりかかってきてもおかしくなかった。イギリスでは、自国の防衛の強化を怠ったと当時の内閣に不信任決議が出され、チェンバレン首相は引責して辞任を決意。後釜を決めるにあたっては、外相のハリファックスが最右翼として意見の一致をみるのだが、本人がこれを固辞するという中で、「野党が認めるのは一人しかいない」と白羽の矢が立ったのが、海軍大臣のチャーチルだった。チャーチルは国民には人気があったものの、度重なる失策により「政界一の嫌われ者」呼ばわりされていたので、チェンバレン以下の内閣の面々にとってはこの後継者選びは「最悪の選択」であったが、最終的にチャーチルはこの動乱の時代に首相に就任することとなった。


 映画は前述(5月9日のことだ)から、一ヶ月にも満たない期間の出来事を描いているのだが、ここでのチャーチルの決断––––ドイツと戦わずに交渉するという宥和政策をとらず、徹底抗戦する––––がナチス・ドイツの侵攻を食い止めることとなる、歴史的に見ても重要な日々に焦点を当て、そこでのチャーチルをはじめとする人々の迷い、決心を丁寧に表現している。辻が尽力して作り上げた(開発と試作に半年、現場でのヘアメイクは3時間半を費やした)見た目だけでなく、話し方や立ち振る舞いに至るまで、チャーチルを完璧に自分のものとしたゲイリー・オールドマンの演技の素晴らしさがこの映画を特別なものにしてるのはいうまでもないが、本作で私が着目したのは衣装であった。


 ウェル・ドレッサーとしても名高いチャーチルのイメージをまったく損なわないその衣装は、実際にチャーチルが着ていたものを徹底的にリサーチし、用意されたという。スーツは<HENRY POOLE & CO>のビスポーク、ハットは<LOCK & CO. HATTERS>の特注品。シガーや懐中時計などもぬかりなく選ばれている。唯一、シューズだけは当時チャーチルが誂えていたシューメーカーがなくなってしまっていたので、同じものは叶わなかったということだ。ちなみにベン・メンデルソーン扮する国王ジョージ6世の衣装も<HENRY POOLE & CO>で誂えている。いずれも胸回りのドレープや肩周辺から、英国テーラリングの持つエレガンスが匂いたっていて、実に見事な仕上がりだ。


 ここで話は冒頭の引用に戻る。『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』を観て、芸術の一ジャンルたる映画における衣装=服の役割の大きさに唸ったと同時に、私の脳裏に浮かんだのが冒頭の金井美恵子の文章だったのだ。引用箇所で金井美恵子が触れている映画は、若松孝二監督の『11・25 自決の日 三島由紀夫と若者たち』(2012)である。この作品で見られる「楯の会のデザインを模した服」は、ペラペラで重みがまるで感じられない(金井美恵子述べるところの「見るからにスフ入りの生地」は、スフ=ステイプル・ファイバー=レーヨンの混紡生地のこと)。たとえていうなら、手間暇をかけ、上質な生地を存分に使ったモードの服と、そのデザインだけをコピーしたファストファッションぐらいの違いがあるのだ。衣装がこうだと、俳優陣がどれだけいい演技をしたところで、観客はシラけてしまう。表層的なデザインだけでは如何ともしがたいのである。


 映画の中のビスポークについてもうひとついえば、5月に公開されるポール・トーマス・アンダーソン監督の『ファントム・スレッド』で、カリスマ的な人気と実力を誇るドレス・メーカー役を演じるダニエル・デイ=ルイスは、<ANDERSON & SHEPPHARD>で誂えたスーツ、ジャケット、コートを作中でまとっている。シューズは弊社でもおなじみ<George Cleverley>だ。そういえば、『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』で、その当時のチャーチルのシューズを誂えていたシューメーカーが現存しないということは先に記したが、それはおそらく<Tuczek>ではなかろうか。チャーチルは<Tuczek>から独立したジョージ・クレバリーが自分の名前を冠して1958年に始めた店、つまり<George Cleverley>の顧客となっているからだ。




(メディア向けメールニュース「BEAMS NEWS」Vol.413掲載のコラムに加筆)

反転、のち、新しい世界––––『RAW~少女のめざめ~』

 先ごろ公開になった映画『RAW~少女のめざめ~』は、ジュリア・デュクルノー監督の長篇デビュー作で、第69回カンヌ国際映画祭の国際批評家連盟賞を受賞している作品だ。


 ベジタリアンのジュスティーヌ(ギャランス・マリリエ)は、両親が卒業し、姉・アレックス(エラ・ルンプフ)が在学中の全寮制獣医科大学に晴れて入学することとなった。新しい環境への希望や学習意欲の高まり(彼女はとても頭がいいのだ)にじっくり浸る間もなく、ジュスティーヌを含む新入生は先輩たちからの「洗礼」を受けることとなる。白衣を着て整列する新入生たちの頭上から動物の血がふりそそぎ(『キャリー』へのオマージュであろう)、ひとりずつうさぎの腎臓の生食を強要される。ベジタリアンのジュスティーヌはムリ! と拒むが、アレックスにこれを無理やり食べさせられてしまう。そのおかげでジュスティーヌの身体にはアレルギー反応と思しき湿疹ができ、痒いものだからこれを掻きむしって、皮膚がむけてしまった。これをきっかけに、ジュスティーヌに変化が訪れる。ベジタリアンだった彼女が肉を欲するようになるのだ。はじめは普通の肉だったのが、とある事故的な出来事から人肉の味を知ってしまうジュスティーヌ––––。


 人肉食=カニバリズムが出てくるということで、アメリカでは観客にエチケット袋が配られたそうだが、カニバリズムについてはいうほど目を背けたくなるような描写はないと感じた(人によって耐えられるレベルが異なるので、参考程度に願いたい)。それよりも、先に挙げた自分の皮膚を掻いて掻いて掻きこわしてしまうシーンや、肉食にめざめたジュスティーヌが自分の髪の毛をのべつまくなしに食べて吐くシーン(このあと、吐き終えてひと息ついたところはかなり笑える)などの方がゾクッときた。それはおそらく掻きこわしたり吐いたりすることの方が、人肉食よりも自分に近しい出来事だからだろう。この作品の怖いところはしかし、そうした描写にあるのではなく、身近に存在する当たり前と思っていたことが、何かをきっかけにして容易に反転してしまうという脆さ、物事の両義性ではないだろうか。


 ところで、人肉という言葉を目にすると反射的に思い出すのが、雑誌『ビックリハウス』で連載していた赤瀬川原平の「人肉はまだ食べていないけど」というエッセイだ。思い出す、と書いたが、エッセイの具体的な内容はあまり覚えておらず、ただただタイトルだけを記憶している。どういうわけだか「人肉はまだだけど」と覚えてしまっていたのだが、とにかくそれほどインパクトが強かったのである。改めて調べてみると、貧乏で食べ物があまりないときに何を口にして飢えをしのいでいたかについての話だった。つまり「人肉はまだ食べていないけど、こんなものやあんなものなら食べた」ということなのだが、タイトルの「まだ」がなかなか効いている。このまま飢えが続いたならひょっとすると食べてしまうかもしれない、ということを感じさせるからだ。『ビックリハウス』で「人肉はまだ食べていないけど」の連載をしていたのは1981年から82年にかけてで、このエッセイのタイトルは当時世界を震撼させていたパリ人肉事件を念頭に置いてつけられたものだろうことは想像に難くない。ちなみに同エッセイは、中公文庫の『少年と空腹 貧乏食の自叙伝』にて読むことができる。


 さて、『RAW~少女のめざめ~』に戻ると、先に触れたカニバリズムはもちろん重要な要素ではあるのだが、本作は単に露悪的な描写に終始しているわけではない。これはホラーと呼ぶにはあまりに苛烈で切ない家族の物語であり、少女が大人へと変化してゆくあるひと時の話なのだ。スクリーンに広がる血肉におののきながらも、アレックス、母、そして父、それぞれのジュスティーヌとの関係の持ち方には注意を払っておきたい。


 私がこの作品を理解するうえで考えたキーワードは「嗜好」「家族」「リセット」「正常と異常の境界線」などで、同時にサド、バタイユの文学作品、一連の吸血鬼もの、『キャリー』『サスペリア』『フェノミナ』『キャット・ピープル』(ナスターシャ・キンスキーの方の)『ソドムの市』といった映画を思い浮かべ、またある場面では丸尾末広の影響も感じ取った。これらにもとづき、劇場用パンフレットに「新・ジュスティーヌと家族––––これはホラーではない」と題したエッセイを寄せているので、ご興味のある方は劇場にてパンフレットをお買い求めいただけたら幸いである。私のほか、町山智浩さん、真魚八重子さん、小林真里さん(みなさん映画評論家)が執筆なさっていて、読み応えもたっぷりだ。


(メディア向けメールニュース「BEAMS NEWS」Vol.408掲載のコラムに加筆)






滞英日記

8月30日(水)晴れのち雨

 前の晩から一睡もせず、朝5時頃にタクシーを拾って品川駅へ。品川から羽田空港国際線ターミナルまでの所要時間が思いのほか短くて済み、空港で時間を持て余してしまった。まぁいつもギリギリなのでこのくらい余裕がある方がまだましである。久しぶりのロンドン、というか海外自体が久々だ。機内では二回の食事以外は眠って過ごした。完徹だと飛行機だろうがどこだろうがよく寝られる。同日午後、ロンドン・ヒースロー空港着。パディントン駅までのヒースロー・エクスプレスは空いていて快適である。パディントン駅でオイスターカードを購入し、チューブでベイカー・ストリート駅下車。冷たい雨の中、しばらく歩いてホテルに到着した。折りたたみ傘を持参していて助かった。

 ナイツブリッジにある老舗百貨店「ハーヴィー・ニコルズ」で8月31日より行われる弊社のポップアップストアのレセプション・パーティーのため、ロンドンに来た。パーティーでのDJを依頼されたのである。この日は夕方から写真撮影。一度、ハーヴィー・ニコルズに立ち寄り、夕食はチャイニーズ・フードにした。男三人だったからか炭水化物祭りであった。


8月31日(木)概ね晴れ

 朝、チューブと地上線を乗り継いでロンドン北東部のダルストンに向かう。インターネット・ラジオ「NTS」で1時間のDJミックスの収録である。これをブッキングしてくれたのは、ハーヴィー・ニコルズのレセプション・パーティーでも一緒にDJをすることになっていたThrowing Shadeという女性DJ/プロデューサーだ。日本でも人気のレーベル<Ninja Tune>からリリースもしていて、昨年10月、東京で一緒にDJをしたのが縁で今回のブッキングと相成った。彼女はNTSに番組を持っていて、その枠のゲスト・セレクターとして呼んでいただいたのだ。弊社UKオフィスの日野くんと待ち合わせて10時にダルストン・スクエアに行くと、彼女のボーイフレンドのニコラスがお出迎え。ニコラスは<NICHOLAS DALEY>のデザイナーである。ほどなくしてThrowing Shadeも合流し、すぐ近くのNTSのスタジオに移動。日本のアーティストの曲を中心にした選曲で1時間のミックスを録音した。ちなみにこのときのプレイは、現在NTSのアーカイヴにて聴取可能である。収録を終えて、近くの「Cafe OTO」で昼食。カフェだが、レコードやCD(アヴァンギャルドやワールドミュージック系が多い)も扱っていて、ライブも頻繁に行われている。料理はペルシアン・インスパイアド・フードで自分好みの味。

 夜に行われたハーヴィー・ニコルズでのレセプション・パーティーは、大勢の方に足を運んでいただいた。仙台木地製作所の佐藤康広さんによるこけし作りの実演があり、興味津々といった面持ちで眺める人が後を絶たなかった(私もこけし作りは初めて見た)。Throwing ShadeとのDJも楽しい時間であった。本ポップアップストアは、日本のファッションやプロダクトをコンパクトに紹介するものなのだが、それなりに日本のそうしたものが定着しているロンドン(たとえば、雰囲気のいい雑貨屋などで扱っているのは日本製文具だったりする)では、物珍しさではなく、純粋にそれを気にいるかどうかが売れる、売れないに関係している。そういった傾向もあってか、価格が高いからといって売れないということはなかった印象だ。レセプション終了後、SOHOのチャイナタウンで中華。人数に対して明らかに注文する品数が多く、残ってしまった料理は日野くんのアシスタントの三宅くんなどがお持ち帰り。ホテルに戻って少し仕事をしたのち、就寝。


9月1日(金)晴れ

 早朝に目覚めたタイミングで毎週配信しているメールニュースの校正をやって、二度寝。この日はSOHOエリアのレコード屋をリサーチするつもりでいたが、その前に「ナショナル・ギャラリー」で往年の名作絵画を堪能した。ロンドンのレコード店は、中古盤についてはスリーヴだけが棚にあって、本体(レコード盤)はレジの後ろなんかに別に置かれていることがほとんど。今回、とある店で7インチ(のスリーヴ)を数枚まとめてレジに持っていったら、「ごめん、どうやってもこの二枚だけ中身が見つからないのよね……」ということがあった。残念だけれど仕方がない。SOHOのレコード店は、どこも老若男女入り混じって賑わっている。ただ話をするだけに来ている人もいて、コミュニティとしての機能も垣間見れた。レコード屋以外にいくつか気になる店があったのだけれど、時間が足りなくてこの日は断念。一度ホテルに戻って、夜は再びSOHO。ヌーヴェル・キュイジーヌといった風情のビストロへ。ステーキが出てきたが、頼まないとフレンチマスタードはついてこない(頼んだ)。


9月2日(土)晴れ

 日中、SOHO再訪。今風の清潔感とクラフトっぽさのある店構えでレバノン料理を出す「HUMMUS BROS.」にて、フムス、ファラフェルとピタパンの昼食を摂る。リーズナブルで美味しい。あとから調べたら、ロンドンに数店舗を構えているようで、今年はじめのTimeout UKの記事「The 100 best cheap eats in London」にて15位と、かなり上位に入っている。昼食後は前日に気になっていたテキスタイルの店へ。ビンテージから最近のものまで、様々な生地を計り売りしてくれるのだが、テキスタイルだけでなく、ボタン、糸、リボン、糸巻きといったアイテムも充実していてとにかく楽しい。ロンドンでは服飾関連の学生にも人気だそうだ。全体にちょっとフレンチっぽい雰囲気の品揃えなのに、パンク崩れみたいな女の子の店員がいたり、BGMがB-52’sだったりというのがロンドンっぽくて余計に好印象であった。持ち時間ギリギリまで店内を見て、いくつか買い物をしたのち、ハーヴィー・ニコルズへ。

 この日のハーヴィー・ニコルズのポップアップストアは、いらしたお客様にドリンクサービスがあったり、先のこけしの実演もあったりと最初の週末らしく特別な催しがあった。私もこの日は店内でDJをやることになっていたのだが、先方の手違いでターンテーブルの用意を忘れていて、どこかからターンテーブル調達してきてもらった結果、予定時刻より1時間ほど遅れてプレイを開始することになった。レセプションの日とは内容を変えて、日本人アーティストの楽曲だけで2時間ほど。閉店後はコヴェント・ガーデンのホテル(わりと新し目の)の下方階を使ったレストランで会食だったが、疲れからか終盤一瞬寝落ちしてしまった。ホテル帰着後、パッキングして就寝。


9月3日(日)晴れときどき曇り

 ホテル前にタクシーを手配してもらい、朝8時30分にヒースロー空港に向け出発。渋滞もなくスムースであった。ヒースローでは、羽田空港でOKだったバゲッジの重量は厳しくチェックされ、中のレコードを少し手荷物に移し替えたり、また手荷物検査も同様に羽田で特になにもいわれなかったものがサイズ的な問題で没収されたり(洗顔フォーム)と、テロ対策が厳重に行われていることを実感せずにはおけない。機内の時間は行きと同様、食事を除いてほぼ睡眠に充て、4日(月)朝に羽田空港着。数日ぶりの東京は雨降りだった。


(メディア向けメールニュース「BEAMS NEWS」Vol.390掲載のコラムに加筆)



『天使の入江』に寄せて––––追悼・ジャンヌ・モロー

 ジャンヌ・モローの訃報が飛び込んできた日、『天使の入江』の資料とサンプルDVDが手元に届いた。正確にいうと、資料とサンプルDVDが先に届き、そののちに訃報を知った、というのが時系列に沿った流れである。実はこの資料、本来なら5月下旬に受け取るはずのものだったのだが、ちょっとした手違いで2ヶ月以上遅れての到着となった。現在、シアターイメージフォーラムにて「ドゥミとヴァルダ、幸福についての5つの物語」という特集上映が行われているが(ジャック・ドゥミの『ローラ』、『天使の入江』、アニエス・ヴァルダの『5時から7時までのクレオ』、『幸福(しあわせ)』、『ジャック・ドゥミの少年期』。8/18まで)、『天使の入江』は劇場初公開作品で、配給会社の担当の方がロードショー前に観られるようにとサンプルDVDを送ってくださっていたのだ。特集上映のことは前から聞いており、会期中になんとしても時間を作って観にいこうと思いつついまだ果たせていない、というタイミングで届いたDVDを素直に喜んでいた矢先の訃報であった。その日の夜、すぐさま『天使の入江』のDVDを観たのはいうまでもない。


 『天使の入江』は1962年の作品で、ジャック・ドゥミのキャリアの中でも初期のものにあたる(監督デビューが1955年、初の長編作『ローラ』が1961年作品)。主演はジャンヌ・モローとクロード・マン。冒頭にジャンヌ・モローのことを書いたのはこのためである。パリの銀行に勤めるジャン(クロード・マン)はギャンブル好きの友人に連れられてアンガンのカジノに行き、ビギナーズラックかルーレットで大当たり。大金を手にして帰宅すると、時計職人である父にその金がギャンブルで得たものだと知れ、ジャンは勘当されてしまう。パリを離れ、ニースに着いたジャンは、通称「天使の入江」にあるカジノに通うようになり、そこでジャンヌ・モロー扮するジャッキーという名の女性に出会う。二人は意気投合し、ギャンブルのパートナーとしてルーレットに賭け続けた。


 ギャンブルなので勝つときもあれば大負けする日もある。すべては運次第。負けてすっからかんになったジャッキーは、ギャンブル断ちをして新たな人生を始めようと駅に向かうが、ルーレットの誘惑に抗えず、踵を返してカジノへ。ジャンもそれに付き合い、見事に大勝した。ふたたび大金を手にした二人は、その金でクルマやドレス、タキシードを買い、モンテカルロで優雅な生活をおくるようになるのだが––––というのが本作の途中までのあらすじである。


 全篇を通して、ある種の躁状態、興奮状態、スピード感がついてまわる。それを端的に現しているのが本作のオープニング・シークェンスだ。「天使の入江」(ニースに実在する湾である)沿いにのびる「英国人の散歩道」を歩いているジャッキーの姿を正面から捉えているカメラは、猛スピードでジャッキーから遠ざかり、「英国人の散歩道」の両側の景色を後方に追いやりながら進んでゆく。添えられたミシェル・ルグランの手になる曲が躁状態に拍車をかける(この曲はルーレットの音を表現するべく作られている)、大変素晴らしいオープニングである。そしてこのオープニングはエンディングと対をなすものなので、ぜひスクリーンにてご確認いただければと思う。


 それにしてもジャッキーは「私にとって賭けは宗教も同然よ」と宣うわりには自分だけだとさっぱり勝てない。勝つのはジャンといるときだけだ。運がないのである。その意味でオープニング・シークェンスを思い返すと、ジャッキーを離れてゆくカメラは運あるいは神的な視点なのかもしれない。そんな運のないジャッキーだが、不思議と悲壮感はなく、ルーレットのカラカラとした音のように乾いた印象がある。生活のため、単に金を稼ぐために賭けるのではなく、あくまでも賭けるという行為そのものを真剣に執り行っているからであろうか(それが最も厄介なところでもあるのだが)。劇中の身なりも品格と艶っぽさがあり(ジャンヌ・モローの衣装はピエール・カルダンが担当)、ブロンドヘアとも相まって明るいイメージを形づくっている。

 

 ジャンヌ・モローの出演作で印象深いものはいくつもある。『死刑台のエレベーター』(1958)、『突然炎のごとく』(1962)、『鬼火』(1963)。『バルスーズ』(1974)は音楽家の友人宅でこのところ毎年元旦の夜に行われている新年会(呑みながらの映画鑑賞会ともいえる)で2年前に観た。そうそう、『女は女である』(1961)にもチラッと出ていて、気の利いたセリフを吐いていたんだった。と、枚挙にいとまがないけれど、凄みという点でいえば『黒衣の花嫁』(1968)が圧倒的である。結婚式の最中に夫を殺害されたジュリー(ジャンヌ・モロー)が、その犯人5人をひとりずつ殺してゆく復讐劇だが、深い憎しみをモノトーンの服に包んで表に現さない冷徹な仕事ぶりが、かえって悲しさを観る者に感じさせる。そういう意味で『黒衣の花嫁』は「陰」の極致で、『天使の入江』の躁状態、「陽」の状態とは対照的である。


 さて、ふたたび『天使の入江』に戻ると、作中、賭けに関しての会話の中でジャッキーは「もし数字が神の思し召しだとしたら…」と語っている。そんなことをいいながら、ギャンブルの神には完全に見放されているのが面白いところなのだが、その一方で、実に奇妙なタイミングで私のところに届いたこのサンプルDVDこそ映画の神様の思し召しかもしれないと、観終わって思った。



(メディア向けメールニュース「BEAMS NEWS」Vol.385掲載のコラムに加筆)



しぐさの情報量

 「いつの頃からか、夏の暑い日ざかりでも、出かける時には必ず、片手に上着を持ってゆくという習慣がついてしまった。用心のためである。いつどこで、恐るべき冷房の寒冷地獄に見舞われるか、分ったものではないからである」と澁澤龍彦は書いているが(『太陽王と月の王』所収「冷房とエレベーター」)、これには深く首肯せざるを得ない。わたしなどは「持ってゆく」どころか上着を着ていないとどうにも不安でならないほどだ。日本の夏がどんどん暑くなってゆくのと相反して、同じ時期の室内はますます寒くなっている。相反してと書いたが、暑いからどんどん冷やすという因果関係があるのは明らかであり、相反しているのはつまり温度のベクトル、というほどのことになろう。とにかく屋内には冷えすぎた場所が多いのである。よって、なにかしらの上着がわたしには必要となる。


 少し前のことだが、京橋で新作映画の試写を観る前に銀座で昼食を摂った。本格的な夏を思わせる暑さの日であった。銀座通りを歩きながら、道行く人を眺めると、皆、当然のように薄着である。ビジネスマンなら白いシャツにスラックス。買い物客や観光客はTシャツ姿が多い。さらりとしたワンピースに日傘という女性が少なくなかったのは銀座という土地柄のせいだろうか。こちらはといえば、パジャマシャツ型のリネンのジャケットを羽織っている。まわりを見回すと、上着着用は自分以外にはあまりいない(年配の男性は多少見受けられる)。確かに屋外で上着ありはすこぶる暑いのだが、まぁ何を着ていても暑いときは暑い、となかば諦めているので自分は一向に構わない。むしろ薄着で出かけてしまって、室内で寒い思いをする方が困りものなのだ。


 翻って、いつ頃まで薄着で外出していたかを思い返すと、おそらくは10代までであったと思う。Tシャツや半袖シャツでも震え上がるような寒さを経験したことがなかったのは、冷房装置の性能もさることながら、自分が若かったからだろう。とはいえ、当時も別段冷房に強かったとは思えないので、10代から徐々に身体が対応できなくなってきた、ということの方が正しいにちがいない。こればかりは致し方ないのである。


 「たとえば『軽さのエレガンス』ということがある。文章は、あまり仰々しく重々しくなってはいけないのである。伊達の薄着のように、着ぶくれしないで、しゃんとしていなければならない。軽さもエレガンスも、怠惰や無気力を拒否する精神の特質であろう」とは、澁澤龍彦が文章の心得について記したものだが(同「嘘の真実 私の文章修業」)、ファッションも着ぶくれはさけたいところ。夏場なら上着は着ていても暑苦しく見えないような「軽さのエレガンス」を大切にしたいと、わたしも思う。つまり、着ていながらにして軽やかであるということで、これはもちろん選ぶものや着方にもいえることではあるが、立ち振る舞いによって実現可能でもあるだろう。しぐさや動作に「怠惰や無気力を拒否する精神」を宿す、ということである。


 しぐさや動作から受け取ることができる情報量というのは、思いのほか多い。たとえば暑いさなかにダラっとした歩き方をしていると、余計に暑そうにみえてしまう、というようなことである。何を着るかとかどう着るか以上に気をつけたいところだが、自らの裡に他者性を持ち合わせていないことには、なかなか実現できないことでもあるだろう。人のふり見て……とはよくいわれるが、スマホの画面に没頭している人にとっては「人のふり見て」は通用しない。何せ「人のふり」など眼中にないからであるからだ。もうこうなると、おかしな姿勢になっていたり見苦しい感じになっているときにアラートがくるような「人のふり見て我がふり直せ」アプリでもないとどうしようもないのではないかと思ったりもする(もう実際にあったりするのだろうか)。


 効きすぎの冷房から思わぬところに話が及んだ。今日から8月、夏本番。立ち振る舞いくらいは涼しげにきりりとしていたいものである。家のなかで過ごすときに、だらしない雰囲気でなく、なおかつ涼しいものはなんだろうと改めて考えてみると(わたしは部屋着的なものは持ち合わせていない)、浴衣は悪くないのかもしれないとふと思った。昔なら考えつきもしなかった浴衣という選択肢が浮上したのは、年齢のせいだろうか。とはいえ、実現に向けて何か調べているわけでもなく、きっと気がつけば夏が終わっていそうな気配が今のところは濃厚である。

(メディア向けメールニュース「BEAMS NEWS」Vol.381掲載のコラムに加筆)







滑り込み雑記

 会期終了が迫っている展覧会のいくつかに滑り込んできた。ひとつは練馬区立美術館の「19世紀パリ時間旅行––失われた街を求めて––」(6/4にて終了)。これは練馬区独立70周年を記念して企画された展覧会で、フランス文学者・鹿島茂の『芸術新潮』での連載「失われたパリの復元」をもとに、19世紀パリの全体像を解き明かしたものだ。ナポレオン3世在位時、すなわち第二帝政期(1852-70)に、セーヌ県知事のオスマン男爵が進めた「パリ大改造」(1853-70)により、パリは現在我々が目にする姿の骨格を形作ったのだが、では大改造でなにが失われ、なにが登場したのか? これを地図、絵画、写真、衣服など膨大な資料を通じて明らかにしたのが本展覧会である。なにより資料の点数が多く、それぞれに付けられたキャプションも密度の濃いもので、ちょっとやそっとで覚えられるはずもないと思い、詳細は図録を読み込むことにして、気になった展示物だけしっかり観ることに。印象に残ったのは、後半に展示されていた、ルーマニア出身のポスター画家パルがロイ・フラーを描いた「フォリ・ベルジュール座、ロイ・フラー・ショー」だ。


 19世紀末、ベル・エポック期のパリで活躍したアメリカの女性ダンサー、ロイ・フラーは生地をたっぷりと使ったシルクのドレスを着てくるくると踊り、それを照明技術を駆使してさらに効果的に見せた、「モダン・ダンスの祖」と称される人物。少し前に、彼女を題材にした映画『ザ・ダンサー』(公開中)を一足早く観る機会があって覚えていたのだ。細かな地図やさほど大きくはない木版画などの展示が続くなかで、この「ポスター芸術」エリアと衣服のコーナー(ウォルトのドレスなどが飾ってあった)は、なんというか息がつける感じであった。


 練馬区立美術館を訪れた前週は、「ファッションとアート 麗しき東西交流展」(横浜美術館)に行ってきた。19世紀後半から20世紀前半のファッションと美術において、日本(東洋)とヨーロッパが互いに影響を及ぼし、両者の文化が入り交じってゆく様を紹介するこの展覧会、日本と海外とをつなぐ玄関口であった横浜で行う意義のあるものだと感じた。出展作品のなかには、これまで別の美術館で見たものもいくつかあったが、京都服飾文化研究財団(KCI)所蔵のジャポニスムのドレスコレクション––––着物や日本文化にインスパイアされた<LANVIN>や<CHANEL>のイヴニング・コートなど––––は量、質ともに素晴らしいものだった。少し前に話題になっていた「文化盗用(Cultural appropriation)」についての議論でいえば、ここに展示されているドレスはほぼ全部NGなのだと思うが、こうした誤解や誤配がなければ文化が発展しなかったのも事実。個人的には、文化は敬う必要は感じるが、同時に誰かの所有物ではないと改めて思った次第である。


 展示物のなかでは、昭憲皇太后が新年の朝賀の際に着用された大礼服は、3メートル超のトレーンを引くドレスで、映画『メットガラ ドレスをまとった美術館』で観られるリアーナの黄色いドレスにも引けを取らない豪華さに目を奪われた。「日本 洋装の受容と広がり」のパートでは、西洋文化を取り入れ、生活様式が変化したこの時代の日本の風俗が絵画、写真などを通じて表されているが、洋装の女性がベッドに寝転んで蓄音機から流れる音楽に耳を傾ける、勝田晢の《朝》(1933)には思わずにやりとさせられた(画像は図録に掲載されているものの一部分)。この時代にもこんな人がいたなんて嬉しいではないか。「ファッションとアート 麗しき東西交流展」は6/25(日)まで開催中。


 滑り込みといえば、東京都美術館のブリューゲル「バベルの塔」展も7/2まで。これも滑り込まねばならない。展覧会は1日にひとつでないと集中力が途切れてしまいそうで、そう思うと時間が足りない。古いものだけでなく新しいものも観に行っているので余計である。きちんと予定を立てて行けばいいのだけれど、どうにも予定を立てられない質だから仕方がない。自分に文句をいうしかないのだ。しかし、行けば行ったでいろいろな事柄が頭のなかでつながり、新たな事物の関係性を築くことになるのは楽しい。取り立てて実生活において役に立つようなことはまぁないに等しいが、自分のやっていることはほとんどがそういうものだし、有用性や利便性を追求する気もあまりない。その意味において、自分はオブジェ嗜好なのだと思う。いま、やはりオブジェ嗜好といっていいだろうとある文学者についてのエッセイに取り掛かっている。取り掛かっていると書いたが、資料にあたってイメージを膨らませている段階で、まだ文字として記してはいない。ぼちぼち締切が近づいてきているので、こちらは滑り込みにならないようにしたいものである。



(メディア向けメールニュース「BEAMS NEWS」Vol.377掲載のコラムに加筆)



音楽のないところにも音楽を––––デヴェンドラ・バンハート インストア・ライブ

 1990年代の終盤から2000年にかけて、PCの普及とともに音楽制作の手法にも変化が及んだ。立派なレコーディング・スタジオで費用をかけて録音しなくても、自宅に簡単な機材とPCがあれば音楽を生み出すことが可能になったのである。このことは、かつてドラムマシンやサンプラーが入手しやすい価格になって音楽の性質が変わったのと同じかそれ以上のインパクトがあった。楽器の演奏に長けた人でなくとも、音楽を作り出すことができること––––つまりそれまでの方法論やミュージシャン的思考とは切り離された、新しい音楽が登場する予感––––に、シーンは沸き立ったものだった。「エレクトロニカ」と呼ばれる音楽ジャンルが成立した背景にはこうした流れがあった。グリッチ・ノイズやサンプリング音源をPC内で電気的に処理して「作曲」する(もちろん手弾きの楽器音が入る場合もある)エレクトロニカは、当時のポピュラー・ミュージックにおいては実に斬新なものであったが、この中でサンプリング・ソースにアコースティック楽器の音源を用いたり、自らギターやピアノを「鳴らした」断片を使ったものはフォークとエレクトロニカを組み合わせた「フォークトロニカ」と呼ばれ、その柔らかな音像から一定の広がりを示していた。代表的なアーティストを挙げると、フォー・テットやカリブー、スフィアン・スティーヴンスなど。アニマル・コレクティヴの初期もこの流れと考えていいだろう。


 エレクトロニカが台頭する過程で、それまで楽器を手にしていた音楽家が楽器をあえて放棄して音楽を生み出そうとすることも起こったが、インターネットの浸透とともにエレクトロニカというジャンルが均質化、つまりネットで情報を得たり音源を聴いたりした人たちが、それに影響されて似よりの音楽を作るようになると、次第にこの動きは沈静化し、また一般化されていった。これが大体2000年代中盤の話である。このあたりから目立ってくるのが、「フリー・フォーク」と呼ばれる音楽だ。フォークトロニカの、電子音楽でありながらオーガニックな雰囲気を保ったサウンドのひとつの発展形態、すなわち電子音や電気的処理に頼らず生演奏で作品に独自性を与えるフリー・フォークは、確かに発展形態だが一聴しただけだと昔に逆戻りしているようにも思えるから面白い。スフィアン・スティーヴンスなどは時代が下るにつれ、どんどん生演奏の比重が高まり、近作だけ聴くと普通にフォークである。また、フォークではないが、かつて「エレクトロニカといえば」と冠がつくほどエレクトロニカの代名詞的存在であったアイスランドのムームは現在すっかり大人数のバンドとして音楽活動を続けている(このバンド形態の音楽も違ったよさがあるが)。


 上記のようにフリー・フォークはフォークトロニカのひとつの進化形でもあるが、もちろんそれだけではなく、特に若い世代についていえばYouTubeなどで過去の音源や映像を参照しやすくなって、そこから直接影響を受けているようなミュージシャンも少なくないだろう。また、これは主にアメリカにあてはまるのだろうが、リーマンショック以降つまり2007、8年以降の価値観の変化というのもあるかもしれない。より具体的に実体のあるもの、顔が見えるものの復権ということである。いずれにせよ、2000年代中盤から後半に向けて存在感を増し、今や立派な1ジャンルとして成立した感のあるフリー・フォークの代表的なアーティストのひとりがデヴェンドラ・バンハートだ。1981年テキサスに生まれ、ベネズエラで育ち、母親の再婚を機にロサンゼルスへと移住したデヴェンドラは、12歳から曲を書きはじめ、2000年頃からロサンゼルスの近郊でライブ活動を開始。2002年『Oh Me Oh My…』でアルバム・デビューを果たした。2006年には「サマーソニック」に出演、2007年のアルバム『Smokey Rolls Down Thunder Canyon』にはザ・ストロークスのニック・ヴァレンジやアシッド・フォークの伝説的シンガー・ソングライター、ヴァシュティ・バニヤンが参加したことでも話題となった。以後も精力的にアルバム・リリースを重ね、また2015年には自身初のアートブック『I Left My Noodle on Ramen Street』を上梓し、多方面で活躍している。ファッション好きな方は<BAND OF OUTSIDERS>でモデルを務めていたことを覚えておられるかもしれない。


 さる5月9日、ビルボードライブさんにご協力いただき、ビルボードライブ大阪とビルボードライブ東京の公演のために来日したデヴェンドラ・バンハートのインストア・ライブを、原宿「インターナショナルギャラリー ビームス」ウィメンズフロアのテラスにて開催した。ちょうど1年ほど前に、イギリスのシンガー・ソングライターALA.NIのライブを行ったのと同じロケーションだ。ビルボードライブでの公演はバンド編成だが、このインストア・ライブは本人のギターと歌という弾き語りスタイル。17時過ぎ頃から会場の準備を始めていると、熱心なファンの方が数名整理券配布の確認をしに来た。18時半過ぎにデヴェンドラが会場入りし、早速サウンドチェック(私はPA担当なのだ)。昨年のALA.NIのときは本人がRCAのヴィンテージ・コンデンサーマイクを持参していて、かなり繊細に調整する必要があったが、今回は私が用意したSHUREのマイクを使用したので、比較的すんなり音もまとまった。


 19時をまわる頃には原宿通りに人だかりができ、開場してほどなく用意した椅子が埋まり、立ち見スペースも埋まり、原宿通りからライブを観ようという人も続々増えていった。19時半、デヴェンドラが演奏ポジションへ。流暢な日本語で「元気ですか~?」とMCを入れつつ、ライブが始まった。音が鳴るとやはり会場のムードが変わるのがすごい。柔らかなトーンのエレクトリック・ギターと、どこか飄々としながらもミステリアスな響きがあるボーカルとのコンビネーションは、夜の入り口にぴったりのものだった。途中、リクエスト・コーナー(!)を挟んで20分程度と、決して長くはない演奏時間だったが、内容的には十二分なものといえるのではないだろうか。終演後、「ビームス レコーズ」店内に場所を移してサイン会を開催したが、ファンとのコミュニケーションを楽しんでいたそうで(私は会場の撤収作業中だった)、彼の温かな人柄が音楽とともに多くの人に伝わったのではと思う。翌日のビルボードライブ東京のステージ、私は伺えなかったが最高だったということである。


 普段、なにもないところに音楽をインストールすると、景色や気配が一変する。音楽を聴くべきところで音楽に触れるのももちろん素晴らしいことだが、そうではないところに音楽が作用するのは予測ができない分、喜びも大きい。またこの場所に音楽をもたらすことができたらと思う。なお、今回のインストア・ライブの模様は後日YouTubeのBEAMS公式チャンネルにて公開を予定している。当日来られなかった方はそちらをご覧いただけたらと思う。


 最後になりましたがご協力いただいたビルボードライブ様、ワーナーミュージック・ジャパン様、VACANTの祐介くんにはこの場を借りてお礼申し上げます。



人の営み、神々の装束、伝統行事

 12月の終わりに茨城県水戸市の水戸芸術館を訪れた。水戸芸術館現代美術ギャラリーでの写真家・石川直樹初の大規模個展「石川直樹 この星の光の地図を写す」を見るためである。品川駅から特急で1時間半ほど揺られ、水戸駅に着いたのは14時過ぎだった。まず昼食を求めて駅近隣を流してみるも、日曜日だったこともあってほぼ全滅(下調べをしないのが悪いのだが)。駅隣接の商業ビルの中で中華料理を食べたのち、水戸芸術館に向かった。


 敷地が広いというのと、やや遅めの時間になってしまったせいもあるのか、会場内は比較的空いていて、展示室のひとつひとつをゆっくりと観てまわることができた。ご存知の通り石川直樹は世界各国を旅して作品を撮る写真家で、K2登山などのイメージから冒険家的な側面がクローズアップされがちだが(少なくとも自分はそういった印象が強かった)、本展では、石川自身のことばが添えられることで、以下の事柄を明らかにしている。すなわち「石川が一貫して関心を寄せるのは、地球上のあらゆる場所に古くから伝わる生きるための『技術=叡智』であり、国境などの区分では捉えきれない各地の有機的なネットワークの有り様です。石川の目と足による縦横な探求は、文化人類学的なフィールドワークであると同時に、もともと『技術』という意味を語源にもつ『アート』を追求する果てしない旅ともいえます」(水戸芸術館ホームページ、展覧会概要より)。人の生きた痕跡、歴史のなかで風化されずに残っている風習などを、極限の自然に、あるいは日々の暮らしに見出して写真に収める石川のアプローチが非常に理解しやすい、いい展示であった。


 展覧会を観終わってミュージアムショップを覗くと、シャルル・フレジェ『YOKAI NO SHIMA 日本の祝祭––––万物に宿る神々の仮装』(青幻舎)が目に入った。昨年の2月から5月まで、銀座メゾンエルメス フォーラムで開催されていたフレジェの個展「YÔKAÏNOSHIMA」で展示された作品を書籍化したものだ。民族衣装、伝統衣装、儀式や祭礼のためのコスチュームなどをシリーズとして撮影するフレジェの作品は、先に触れた石川直樹の作品と同様、人間の営みや知恵を伝えてくれるもの。この書籍『YOKAI NO SHIMA』には、日本各地に残る固有の仮面神、鬼たちの姿がポートレイトとして収められている。6月末に発売されていたがまだ購入していなかったのでさっそく買い求めることにした。


 本書に収録された作品は、秋田から沖縄の島々まで、実に全国58箇所で取材・撮影したものだが、その多くは各自治体や保存会の協力を得て、祭礼の最中ではなく独自のロケーションにて撮影されており、そのことが被写体たる「YOKAI」を過不足なく表現している。ナマハゲは雪に覆われた人気のない海岸にすっくと立ち、獅子は雪原で雄叫びを上げ、カマ踊りの踊り子たちは錆びたシャッターやトタン板の前で歪な表情のまま立ち尽くす。ちょっと怖かったり、またユーモラスだったり、凛々しかったりと、ページをめくる楽しみと驚きが詰まっているのである。また、『YOKAI NO SHIMA』で見られるような神々の衣装の素材や所持品にも、それぞれ意味や理由があるのはよく知られるところだ。藁や蓑は五穀豊穣(ナマハゲ、カセ鳥など)、男根を模した棒は子孫繁栄やこちらも五穀豊穣(つぶろさし、ちとちんなど)を意味する。顔や身体に塗られる煤、泥(黒鬼、パーントゥ)にももちろん意味がある。使われるマテリアルには地域性があるだろう。わたしたちが普段身につけている洋服の素材やつくりにおいても、意味や地域性が秘められているものは少なくない。それを薀蓄として捉えるのではなく、人の知恵や営みの結果生じたものと考えると、がぜん面白くなる。なぜこのマテリアルでなければならないのか、なぜこうした仕様でなければいけないか。いにしえの異形の神々の姿から、思いがけず今のわたしたちの服が召喚された。


 ところで、ナマハゲといえば、NHK NEWS WEBの「Cameraman'e Eye」というコンテンツで「冬点描 ”やさしい”ナマハゲ」と題し、秋田県男鹿市の双六地区のナマハゲを紹介している。双六地区はおよそ60世帯の小さな漁師町で、住民の多くは65際以上。若者たちは就職や結婚などで町を出ていってしまった。「泣く子はいねが〜」で知られるナマハゲだが子どもがいない。これでは商売上がったりである。おまけにナマハゲ役の担い手は全員60歳以上と高齢化が著しい。だからといって長らく続いているこの行事をおいそれと取りやめるわけにはいかない。そんな中、双六地区のナマハゲたちはどうしているかをレポートしている記事だ。大晦日の夜、息子や娘夫婦が子どもを連れて帰省している家には、「泣く子はいねが〜」だが、単身もしくは夫婦だけで暮らしている高齢者宅を訪れたときの様子が面白い。なんと「元気だか?」と声をかけたり、長寿の秘訣を聞いたりするのである。こうして、高齢化が進んだ町でもナマハゲは存続しているわけだが、やはり担い手の高齢化は気がかりなところだ。10年後、いったいどうなってしまうのであろうか。


 こうした伝統行事は、その存在をただ保存さえすればいいというものではないだろう。なぜなら、どれも本来はなんらかの意味があって行われてきたものだからである。たとえばナマハゲは「年の節目になると怠け心を戒め、無病息災、田畑の実り、山の幸、海の幸の恵みをもたらすために、山から降りてくる来訪神」であり、「新年を迎える祝福や子どものしつけの役割」もある(『YOKAI NO SHIMA』「キャラクターとグループの解説」より)。先の双六地区では、高齢化によりナマハゲから子どものしつけという役割が消えつつある一方、漁師町ということで、海の幸に恵まれるようにという側面は健在であり、お年寄りの長寿=無病息災を願うことも重要な意味を持つようになった。伝統行事が形骸化し、社会との接点が薄れて単なる観光の一要素になってしまうよりは、双六地区の例のように、時代や環境を鑑みつつ継続・実施してゆく方が、人々の生活や社会の中での大切な行事という本来的な意味が損なわれずに存続できるように思われる。さて、まもなく節分。炒った大豆で追い払われる赤鬼は「怒り」、青鬼は「悲しみ」、黄鬼は「悩み」という人の感情を表しているのだそうだ。これはとりもなおさず自分の内面との対話にほかならない。なるほど福を招きれるには、裡なる災いのもとを追い出さねばならない。つまり福のためのスペースを用意するというのが節分ということになるのではなかろうか。私はといえば、豆を歳の数だけ食すのもなかなか大変になってきたので、代わりに神保町の老舗「亀澤堂」の豆大福をいただこうかと思案中。こちらの豆大福は小豆のほかに大豆も使っていて絶品なのだ。



映画のほとりから––––19世紀末と現代、など

 1839年にダゲレオタイプ(銀板写真)と呼ばれる写真撮影方法が発明され、リュミエール兄弟のシネマトグラフが1890年代後半に登場した。これらに象徴されるように、19世紀末から20世紀初頭は圧倒的に「見る時代」であった。いや、写真や映画ばかりではない。博物学の発達を進化した印刷技術がサポートして、詳細かつ美麗な動植物画が世の中に出回り、自国の国力や先進性をアピールする国際博覧会(万国博覧会)は興隆を極めた。百貨店もまた然り。人々は「見る」ことで様々な欲求を満たし、また「見られる」ものを消費していった。


 「見られる」対象を消費するということは、文字通り大衆が購入することであり、こうした消費性向を通じて一般大衆における「流行」が発生する。高山宏はヴィクトリア期を以下のように説明している。「そう、『商品』がキーワードになる時代でもあって、『博物学の全盛期』が英国で近代の『新商業』最大の〈発明〉品たるショー・ウィンドーの発達していく時期と完璧に重なっているなどというのも多分偶然ではない」(三省堂刊『世紀末異貌』「表象の世紀末」)。以後、この「商品がキーワード」という傾向はより顕著になり、19世紀末にあっては「見られる」ものに対する消費欲=所有欲は高まるばかりであった。「19世紀後半にかけて次々と百万メガロポリスになっていったヨーロッパの各帝都には未曾有の事物と情報が溢れ、区分と整理、光学と循環、〈新商法〉と見世物、即ち〈表象〉の嗜欲と発見に憑かれた異貌の世紀末がはじまる」(同前掲)。


 産業革命以降、機械化の浸透により同じ規格のものを量産することが可能になった。その結果、比較的安価なものが市場に出回るようになると、ショッピングの楽しみは一般大衆にも及ぶこととなる。現在の消費社会の始まりは、だから、概ねこの時代にあると考えていいだろう。ショーウインドウに展示されるものたちが一般大衆にとって魅力的に思われるには、一目瞭然のわかりやすいものである必要がある。あるいはそれを訴求する明快な謳い文句。おそらくは現在よりも識字率などにおいて差があったであろう19世紀末、あまりくどくど説明しなくても、そのものを欲しいと思わせなければならない。それが高じると、謳い文句が大げさになったり、あるいはショッキングなものになったりといったことが生じるわけで、このあたりなどはインターネット時代の現代とさほど変わりがないのである。


 19世紀末から20世紀初頭のことを唐突に書いたが、その理由は、この時代を舞台にした、あるいは関係した映画を何本か観て、それに関連するいくつかの文献にあたるうち、現代との相似点に改めて気づいたからだ。上記以外にも、たとえばオカルティズムの台頭と昨今のスピリチュアル系や医療などにおける根拠のない民間療法の流布のようなこともシンクロしているから驚いてしまう。思えば、写真や映画といった新しいメディアが一般的になっていったかの時代と、インターネットやVRが当たり前となった現在とでは、対象は違えどそれらを取り巻く状況に似ている点を見出せるのも強ちずれてはいないのではなかろうか。つまりは新しいテクノロジーに対する受容態度の問題である。


 観た作品の話を少しばかりしておこう。『エゴン・シーレ 死と乙女』(2017年1月28日公開予定)は、1918年、28歳で夭逝した画家エゴン・シーレと、彼に関わりのあった女性たちを描いた作品だ。ご存知のように、シーレの作品には女性はなくてはならない存在であり、本作ではそうした女性たちのシーレに対する心情を丁寧に表現しながら、画家、そしてひとりの男性としてのシーレ像を抽出してゆく。シーレを演じたクールな男前(実際のシーレよりもちょっと甘くて、でもクール)のノア・サーベトラを筆頭に、若き才能を全面的にフィーチャーしているが、ユーゲントシュティール(フランスでいうアール・ヌーヴォーと同義であり訳すなら「青年のスタイル」)の系譜に位置付けられるエゴン・シーレの物語としては、実に正しい配役ではないだろうか。この作品については、発売中の『CREA』1月号(文藝春秋)の連載「青野賢一のGREAT CINEMA」で取り上げているので、ご興味ある方はそちらも参照いただければと思う。ちなみに本作はストーリーの展開や俳優の演技もさることながら、衣裳がとてもいい。ちょっと<NICHOLAS DALEY>や<ANN DEMEULEMEESTER>を思わせるようなその服は、ファッション好きが観てもなかなか面白く感じるのではないだろうか。


 『ダゲレオタイプの女』(公開中)では、題名に違わずダゲレオタイプが重要なモティーフとなる。本作は現代劇ではあるが、冒頭に記したようにダゲレオタイプの発明は19世紀。黒沢清監督は、この映画のそこかしこにダゲレオタイプ以外にも19世紀的な気配を忍ばせている。たとえば、ダゲレオタイプの魅力に憑かれた写真家・ステファン(オリヴィエ・グルメ)のモデルを務めるステファンの娘・マリー(コンスタンス・ルソー)は庭の温室で様々な植物を育て、愛情を注ぐ。温室は、植民地経営とそれがもたらした博物学的興味の増大、そしてエキジビション志向、さらに前述とはややベクトルが異なるが室内的な物事への関心(室内装飾など)の高まりから、19世紀のイギリスを中心にヨーロッパ各地で流行したものだ。その背景には素材製造技術の進歩––ガラスと鉄骨の普及があったことはいうまでもないだろう。公共のものだけでなく個人の庭などにも作られた温室だが、個人所有のものは、先の室内的な物事への関心もさることながら、植民地主義的博物学の発露たる大型公共温室(植物園)のミニアチュールとしても捉えられそうである。やや話題が逸れたが、この温室や、郊外に建つ古色蒼然としたステファンとマリーの邸宅(これはゴシック風味といったところだろうか)など、現代を舞台にしながら、ダゲレオタイプ登場の時代を想起させる仕掛けがこの映画の随所に見られるのである。


 ところで、映画といえば、つい先日シアター・イメージフォーラムで開催していた「深田晃司映画まつり」の最終日にすべり込んで、『ほとりの朔子』(2013年)を観てきた。最新作『淵に立つ』でかなり衝撃を受けて、がぜんこの監督の作品に興味を持ったからだ。浪人生の夏の「ヴァカンス」を、二階堂ふみが実に「普通に」演じた『ほとりの朔子』は、オープニングのシークェンスからエリック・ロメールを彷彿とさせる映像とストーリーで引き込まれた。後で監督のインタビューを読んだら、タイトル案も当初は『海辺の朔子』だったようだが、それだとまんまロメール(『海辺のポーリーヌ』)になっちゃうから、と、ずっと好きで使ってみたかった言葉である「ほとり」に変更したのだそうだ。深田作品はまだ2本しか観ていないが、どちらも「ほとり」や「淵」という、あちらとこちらの境界線に生きる人々の揺らぎが丁寧に描かれていて、他の作品も観てみたいと思っている。最終日ということで、上映後に深田監督が前に出て短いスピーチをした。その後、外にいた監督に挨拶し(初対面だった)、以前『淵に立つ』を連載で取り上げた旨伝えてその場を辞した。

 映画の連載を始めたことで、これまで以上に映画に触れる機会が増え、そこから色々と考えを巡らせることも少なくなかった2016年。何かをきっかけにして思索の海に泳ぎだすのは、それが何であれ楽しいものだ。さて、来年はどんなものに出合えるだろうか。出合ったときに打ち返せるように、自らの鍛錬を怠らないようにせねば。


(メディア向けメールニュース「BEAMS NEWS」Vol.353に掲載のコラムを改稿、加筆し掲載)



鶴見川オーディオ探訪記

 この10月、<Pilgrim Surf+Supply>が渋谷に店舗をオープンして1年を迎えた。それに関連して今月は様々な催しが行われているが、さる10月1日にはニューヨークから<Pilgrim Surf+Supply>の創設者であるクリスを招いたアニバーサリー・パーティーを開催した。閉店後のショップを会場にしたこのパーティー、実にたくさんの方にお越しいただき終始賑やかな雰囲気であった。この場を借りてお礼申し上げます。


 <Pilgrim Surf+Supply>の店舗には、個人的にも思い入れがある。店内音楽を再生する音響機器周辺のコーディネートと手配を行なったからである。クリスは無類の音楽好きで、特にジャズ、フュージョン、ラテン、ソウルといったジャンルに造詣が深い。そうした部分を店づくりにも反映させることで、店舗はよりコンセプチュアルなものになる。そういったわけで、店内音楽をレコードでプレイすることや、クリスの好みのオーディオ装置を設置することなどが決まった。

 挙がってきたリクエストを元に、ヴィンテージ・オーディオを取り扱う店のサイトをチェックするも、完全に要望と合致するものはなかなか見つからない。古いオーディオ装置は、実際に見て、そして音を聴いた上でないとどうにも心配なので、北海道や九州に店舗があるヴィンテージ・オーディオ店は必然的に候補から除外されてしまうのも、探すのを困難にする要因のひとつであった。そんな風にしてヴィンテージ・オーディオ店のサイトを覗くのが日課になっていたある日、目当てのスピーカーがサイトに上がっているのを発見した。アメリカの<Klipsch>のものだ。調べてみると実店舗が横浜にある。これは、と思いメールフォームから問い合わせをしてひとまず取り置きをお願いした。昨年の初夏のことである。


 梅雨特有のじっとりと湿気を含んだ空気が暑さに拍車をかけるある日、実際に現物を見るためにこの横浜のヴィンテージ・オーディオ店を訪れた。横浜といっても最寄駅はJR横浜線の鴨居駅。新横浜駅から5分、菊名駅から8分ほどといえばだいたいの距離感は伝わるだろうか。電車は乗っていれば勝手に駅まで運んでくれるが、駅から目的地までは自力で行かねばならない。サイトのアクセスマップだと徒歩15分とある。まぁこのくらいなら大したことはない、そう思って歩き出したのだが、これが思いがけず果てしないのである。何しろ、鶴見川沿いの河川敷を延々と歩く。気候のよい時期ならハイキング気分で行けそうだが、梅雨時はそうはいかない。湿気と高温が容赦なく体力を奪っていく。初めて訪れる土地は距離の感覚がよくわからないので、余計に長い道のりに感じるものだが、まわりに人影のない河川敷をひたすら歩いていると永遠に到着しない気がしてくるのであった。


 とはいえ、実際は永遠に着かないわけはなく、ほどなくして目的のヴィンテージ・オーディオ店に到着(結果的に20分ほどかかったかもしれないが)。名乗って、あらかじめ用意してもらっておいたオーディオ機器のあるところに案内してもらう。<Klipsch>のスピーカーに合わせて<McIntosh>のプリアンプとパワーアンプもセッティングしてもらったのだ。音源を試聴し、それぞれの状態を確認して購入することに決めた。その後、店内を案内してもらい(倉庫のようなところなのでめっぽう広い)、再び鶴見川沿いを歩いて駅まで戻った。


 家のリビングルームで先のサウンド・システムを鳴らすのなら十二分だが、店舗はそれよりも広い。店のどこにいてもある程度音楽が聴こえるようにとオーダーしたのが、奈良でハンドメイド・スピーカーを製作している<sonihouse>の14面体スピーカー「sight」である。これを3ペア(6本)各所に設置することで、自然な音の広がりを目指した。ちなみに新宿「ビームス ジャパン」の1Fに吊り下げられているスピーカーは同じ<sonihouse>の正12面体スピーカー「scenery」である。

 音の入り口はスイスの名品<Thorens>のレコード・プレイヤーをチョイス。<BEAMS RECORDS>で取り扱いのある機種は、レコード・プレイヤーの扱いに不慣れな人でも簡単に操作できるタイプなのでこれにした。レコードはクリスがリストアップしたアルバムを、私の友人知人で中古レコード店に勤務する人々に協力してもらい、できる限り店舗オープン前に揃えたが、クリスが東京に来てから自分でレコード屋を回って入手してきたものも含まれている。こうしてオーディオ類やレコードをなんとか開店前に用意し、オープン日を迎えたのが昨年のことである。最初はおっかなびっくりレコードをかけていた店のスタッフも今や慣れた手つきでA面が終わったらB面にひっくり返してくれていて、心強い。


 先日のアニバーサリー・パーティーでは、DJミキサーを<McIntosh>につなぎ、<Klipsch>と<sonihouse>のスピーカーを鳴らしてみた。通常営業のときよりもグッとボリュームを上げてドライブしたわけだが、実にバランスよくかつパワフルなサウンドを届けることができて、この組み合わせの底力を思い知ることとなった。もちろん、大きな音でなくいつもの音量で聴いても、音楽のニュアンスや情報量が削がれることはないので、店を訪れる機会のある方はぜひ耳を傾けてみていただければと思う。

 昨今、巷には「ライフスタイル」を標榜する店がたくさんあるが、音楽の届け方にまで配慮を感じるところはほとんどない。流す音楽を「それ風」にするのがせいぜいである。そうした中にあって<Pilgrim Surf+Supply>は、手前味噌を承知でいえば姿勢に一貫性がある。私はサーフィンは門外漢だが、いい波を待つような、効率化とは真逆の時間がこの店には流れているように思う。一周年を迎えて思うのは、閉店後にでもちょっとしたゆるやかな集まりがここで定期的にできたらということだ。「Pilgrim Lounge」とでも銘打って、ゆったりと音楽や会話を楽しむなんていうのが実現したらなかなかいいのではないだろうか。集いの拠点になるだけのポテンシャルがこの店にはあると思う。


(メールニュース「BEAMS NEWS」Vol.346に掲載のコラムに加筆掲載)



スナック「日本號」一周年

 ここ数年で、スナックに行ってお酒を飲む機会が増えた。人に誘われたりして行く程度なので、大したものではないが、それ以前は足を踏み入れたことがなかったので、明らかに増えたといっていいだろう。巷でもスナック人気は高まっており、これまで訪れたことのなかった人がその扉を開け、新たなお客さんになっていると聞く。私もそのひとりということだ。

 重そうな木製の扉で明確にこちらとあちらを隔てる。その重たい扉の向こうで繰り広げられるカラオケの音がほんのり漏れ聞こえてきたりして。子どもの頃に持っていたスナックの印象は概ねこうしたものだった。大人になったらこういうところでお酒を飲むんだろうか……いやー行かないかな、とも思ったり。そうして、実際大人になってもなかなか訪れる機会が得られなかったし、別にそれで構わないと感じていたが、いまこうしてスナックの話を書いているから不思議なものである。


 友人である編集者の伊藤総研くんが彼の出身地福岡にスナックを作ったのは昨年のことだ。「日本號」という名のその店は、他界されてしまった彼のお父さんが最後に立っていた店の名前をそのまま受け継いでいる。「日本號」の開店に際してFacebookにポストされた総研の文章によれば、「数年前から40歳になったら福岡で何かをやりたいと思いはじめ、まっさきに思いついたのがスナックでした。僕は中洲でスナックを営んでいた父の息子です。だから、僕にとってはとても自然な選択でした。」ということで、東京で仕事をしながら頻繁に福岡を訪れ、店を作ってしまった。実にすごいことである。2015年10月10日にオープンした「日本號」は、福岡の人はもちろん、福岡を訪れた人々もここを目指して行ったりする人気店となり、まもなく一周年を迎える。

 一周年にあたって、さる9月25日(日)に「ライブ ”スナック” ハウス日本號」という記念イベントが開催された。会場は「日本號」の隣のビルにある「ROOMS」というライブハウス。伊藤総研くん、そして福岡にゆかりのあるミュージシャンらを迎えたこのイベントに、私もDJとして参加してきたので、当日の模様をご紹介しようと思う。


 15時、写真家・ホンマタカシさんと映像ディレクター/編集者の島本塁くんのギター・デュオdeer revengeの轟音で幕を開けた「ライブ ”スナック” ハウス日本號」。続いて箭内道彦さん(風とロック)と伊藤総研くんのトークを挟み、TOKYO HEALTH CLUBのライブがあって、その後に私の出番。30分という限られた時間のなか、ポジティヴな印象の曲をミックスし、(自分としては)楽しく持ち時間を終えることができた。私の次は、鹿児島の「グッド・ネイバーズ・ジャンボリー」の主催としても知られるトランペット奏者・坂口修一郎くん(Double Famous)と、Port of Notes、Discaのギタリスト・小島大介くんによるユニットSOのダビーで無国籍な音楽。そして急遽参加が決定した荒川良々さんのDJがあり、Pepe Californiaの多幸感たっぷりの演奏と続いた。

 イベントも終盤、Pepeのライブの後には<MINOTAUR>ディレクターの泉栄一さんがDJとして登場。もともと福岡の「Dice & Dice」にいた方だ。泉さんのディープ&クールな選曲から、福岡といえばこのお二人、Small Circle Of Friendsにバトンを渡す。Small Circle Of Friendsのライブでは、総研もステージ上で一緒に歌う場面もあったりして大いに盛り上がり、本来ならばここでイベント終了だったのだが、思いがけないサプライズ・ゲストライブ(これは来場者だけのお楽しみということで名前は伏せておく)もあって、さらに湧いたのはいうまでもない。最後はPepe CaliforniaのトシくんのDJをBGMに、皆楽しそうに、そして名残惜しそうに会場を後にして、6時間超の「ライブ ”スナック” ハウス日本號」はめでたく終了と相成ったのだった。


 会場となった「ROOMS」はライブハウスだということは先に記したが、イベント名に”スナック”とついていたのは伊達ではなかった。「日本號」の内装、インテリアを手がけた二俣公一さんが、「日本號」と同じ仕様かつさらに大型のU字型カウンターをこの日のためだけに設え、またスナックらしくソファ席も用意されていたのである。いうなれば「シャレ」をこんな風に真剣に実現してしまうところはさすがとしか言いようがない。

 二俣さんとは、今回初めて実際にお会いし、色々と話をすることができた。<BEAMS RECORDS>のロングセラー・アイテムのひとつである真空管とデジタルのハイブリッド・アンプ「22【tu:tu】」をデザインしているのが、ほかならぬ二俣さんなのである。プロダクトを媒介にして互いに以前から知ってはいたものの、こうして会う機会が持てたのは「日本號」のおかげ。スナックとは、そういう出会いがある場所なのである。


 イベント本篇の後、打上げになだれ込み、程よい時間にホテルへ帰って(最後は4時半頃までだったそう)福岡初日は終了。翌日、日中少し部屋で仕事をしてから太宰府天満宮まで足を伸ばした。夜は東京から福岡に移住した友人家族と食事をして、その後に待望の「日本號」へ。行くことは伝えてあったが、時間を言っていなかったので到着時は満席。補助席を用意してもらい、白州のソーダ割りをいただく。店はこぢんまりとしたサイズ感も相まって、洒落た友人宅を訪問したかのような居心地のよさがある。それでいて、カラオケもあるから面白いのだけれど(スナックだから当然か)。

 あまり長居も野暮かと思い、一杯だけ飲んでホテルへ戻り、翌日の午後には東京へ帰ってきた。一周年のお祝いもできたし、イベントも楽しかったし、「日本號」にも行けたしよかったよかった、と考えていてハッと気づいた。ボトルを入れるのを忘れたのだ。まぁしかし仕方ない。次回行ったときにしっかり入れてこよう。また行く言い訳にもなる。福岡を訪れた際の楽しみが増えたと思えばいい。

 「日本號」一周年、おめでとう。


見た目は雄弁に語る

 「僕はファッションを逃れられない自己表現のひとつと思っています。たとえば声も匂いも届かない所で、ふとした瞬間に姿を見られたとき、どんなデザインでどんな質感の服を着ているかが、どんな人物像を目指しているかという唯一のアピールになってしまう。そこからはけっして逃げられないんです。」

 これは、俳優を生業とされているとある方のことばを引用したものである。何から引用した誰のことばかは後述するとして、上記について少しばかり考えてみたい。


 見た目が多くを語るといえば、なんといっても制服、それも職業制服ではないだろうか。わたしたちは街中で特定の職業を指し示す制服を着用した人を見た場合、あまり疑いも抱かずにその職業に従事している人というように認識するだろう。警官の格好をしている人は警官、そういうことである。職業制服としたのは、学生の制服だとある程度年齢的な制約が生じるだろうからだ。

 「あまり疑いも抱かずにその職業に従事している人というように認識する」ということは、その格好をしていたら、それと信じてしまうということと同義である。つまり制服が、中身を空洞化してひとり歩きすることになる。まるでルネ・マグリットの絵のように。この「制服の効用」をヨーロッパの史実に見出して、それが生じた社会背景やことの顛末までを綴ったのが種村季弘の『ぺてん師列伝 あるいは制服の研究』(オリジナルは青土社から、現在は岩波現代文庫にて入手可)である。

 とはいえ、中身を空洞化するのにもテクニックは必要だ。中身が主張しすぎれば、たちまち制服の魔法は解けてしまう。警官や医師の出で立ちに金髪やドレッドなどは厳禁、ということである。


 では、制服から離れるとどうか。やはり見た目が語る部分は少なくないだろうが、その人となりがそこから透けてくるというところが制服の効果、すなわち着る人物を空洞化するということと実に対照的であるといえる。透けてみえる、と書いたが見た目が着る人の内面をイメージさせてしまう、という表現が正確だろうか。シャツの裾がだらしなく出てしまっているような人は、他の面でもだらしがないんだろうなと見る人に想像させてしまうし、生真面目な装いからはスクエアな印象が漂う、ということである。実際にコミュニケーションをとっていないにもかかわらず、言い方は悪いがある意味勝手にイメージを持たれてしまうのはなかなか厄介なことだが、これを逆手にとるとまた違った効果が立ち現れる。


 冒頭に引いたことばは、俳優・本木雅弘さんの発言だ。10月14日から公開となる映画『永い言い訳』(原作・脚本・監督/西川美和)に主演された本木さんがBEAMSの服をまとって登場する大判のフリー・ペーパー『BEAMS/”The Long Excuse”』には、本木さんと『永い言い訳』のスタイリング・アドバイザーを務めた南雲浩二郎(ビームス創造研究所クリエイティブディレクター)との対談が掲載されている。この対談は、本木さんと南雲との出会いから、『永い言い訳』に携わることになった経緯(作中ではBEAMSの服も着ていただいている)、ファッションに対する考えなどが語られており、先の引用はそこからのものである。

 「インターナショナルギャラリー ビームス」がまだ「ビームス 原宿」の2階にあった頃から、本木さんは店によく足を運んでいただき、私も何度となくお相手させていただく機会があったが、実に柔軟かつ真剣にファッションと向き合っている方という印象があった。なにより服が本当によく似合うので、こちらも着ていただいた姿を見るのが楽しかった。こうしてBEAMSが本木さんの映画に携わることができたのは非常に喜ばしいし、身内褒めで大変恐縮だが、南雲さん(あえて「さん」付けで記すのをお許しいただきたい)の服やファッションを通じたコミュニケーション力、バリエーション豊富な提案力には感服するばかりである。


 ファッションの作用、すなわち見た目が他者の印象を左右するということをポジティヴに捉えて装えば、それは着る人の内面を表す個性を伝えることにつながってゆく。「こう見せたい」あるいは「こうは見られたくない」という、いわば印象操作が可能なのである。印象操作などと書くと先の『ぺてん師列伝』に見られる制服の話のようで物騒に思われるかもしれないが、それと異なるのは、中身が空洞化されずにその人のイメージを形成するところ。フリー・ペーパーの対談を読んで、意志を持って服を着たいものだと改めて思うとともに、自分のイメージをいかに掴ませないかというのにもファッションは実に有効だという思いを強くした。「系」や「型」またはなにがしかのジャンルで括られることからは全力で逃げたいものである。


 フリー・ペーパー『BEAMS/”The Long Excuse”』は、現在BEAMSメンズドレスクロージングの店舗にて配布中。また、対談パートはこちらからもご覧いただくことができる。対談内容が面白いのは先に述べた通りだが、質感もビジュアルもなかなかよい出来栄えなので、できることなら店舗で現物を手にしていただけたらと思う。


(メディア向けメールニュース「BEAMS NEWS」Vol.341掲載のコラムに加筆)


読み方

 ありがたいことにいろいろな媒体で署名原稿を書かせていただく機会が増えるにつれ、ブログというものから遠ざかっていたが(時間的な問題から遠ざからざるを得なかった)、久しぶりに筆をとってみることにした。


 ブログのタイトル「文・音・造」は「ふみ・おと・つくり」と読む。純粋なコラムもあれば、自分がディレクターを務める<BEAMS RECORDS>をはじめとする音楽のこと、そして現在所属している「ビームス創造研究所」でのことを綴っていけたらと思ってのタイトルである。


 なるべく頻度を上げて更新するつもりだが、読んでいただく方の叱咤激励があるとなお捗ると思うので(更新した際はツイッターなどでお伝えします)、よろしくお願い申し上げます。