okinawa and yachimun
写真:湯浅亨/編集・文:小澤匡行
かつて沖縄は、
琉球王国という1つの独立国でした。
日本をはじめ、アジアや中国といった他国の
文化移入に翻弄され、
育まれた文化は今もなお、
真似できない魅力となっています。
そして、その象徴こそが
「やちむん」ではないでしょうか。
フェニカは、世代の異なる作り手を訪ねて
沖縄の魅力を探り、
それぞれが背負う、
後世に残すべき伝統の一片を学びました。
Part 1
島の豊かな心が表現された
「やちむん」 の歴史
海外諸国の文化を
受容することで育まれた、
沖縄の伝統
「やちむん」とは沖縄の方言で「焼き物」を意味する言葉です。その歴史は古く、16世紀からとも言われています。自然の恵みをたっぷりと受け、海外との交易を盛んに行うことで栄えた当時の琉球王国(沖縄)は、暮らしの中に様々な変化を当たり前のように受け入れることで、独自の文化を育んできました。「やちむん」は、その象徴でもあるのです。
海外諸国の陶磁器が、豊富に持ち込まれたことで、当時の琉球王国は焼き物の技術が発展しました。1609年、薩摩藩が行った琉球王国への侵攻によって海外との貿易が下火になると、その代わりに内地や朝鮮から焼き物が伝わるようになりました。その後、1682年には、当時の琉球の国王であった尚貞王が涌田焼、喜名焼、知花焼の陶工たちを首里城の近くに集めて統合させ、壺屋焼が誕生。庶民向けの「荒焼(アラヤチ)」、貴族や上流階級向けの「上焼(ジョーヤチ)」という2種類の焼き物が、交易として栄えました。
明治時代になると、廃藩置県制度によって琉球王国が沖縄県になりました。すると、国を挙げて整理・統合された壺屋焼は、官窯から民窯へと姿を変えるように。流通に規制がなくなり、本土からたくさんの安価な焼き物が流入し、壺屋焼は勢いを失い始めてしまったのです。内地の陶磁器商品たちがデザインを持ち込み、それを壺屋焼の陶工たちが作る、といった下請け的な仕事が増えることで、いつの間にか自分たちが多くの文化と交わることで培った感性や個性が忘れられていくように。
そんな「やちむん」の危機を救ったのが、民藝運動でした。濱田庄司や柳宗悦といった第一人者たちは、1920年代にたびたび壺屋を訪れてました。内地の影響を受けながらも、伝統を守り続けようとする壺屋焼の素晴らしさを、彼らは日本中に紹介することで、陶工たちの評判が広まり、壺屋焼は元気を取り戻していきました。琉球の伝統である、鮮やかでおおらかな色彩は、国内を見渡しても他にない個性でした。庶民の日用品で、ここまで装飾的な民藝の器は珍しかったのです。
しかし昭和に入り、沖縄は戦争によって多くを失いました。しかしながら壺屋焼の被害は少なかったため、戦後すぐに活動を再開。沖縄の復興の第一人者でもあったのです。
しかし1972年、日本に返還された沖縄の次なる課題は、公害問題でした。壺屋焼のあった那覇市内は住宅地として栄えるようになると、薪を焚く登り窯の使用が禁止されてしまいます。行き場とやる気を失った壺屋の陶工たちを救ったのが、読谷村でした。かねてより伝統工芸が盛んだった読谷村は、整備された土地を彼らに与えたのです。こうして、読谷村は「ゆいまーる(互いに助け合う意)」の精神のもと、共同体であることを条件に「読谷文化村構想」を実施。今もまだ現役で活躍する山田真萬さん、大嶺実清さんらも移住し、作陶のための理想的な環境を整えました。そこに憧れ、刺激を受けた次世代たちが、彼らに弟子入りし、独立することによって「やちむん」は日本中に広がり、世界中に愛されていくのです。その初めの担い手となったのが、松田米司さん、松田共司さん、宮城正亨さん、興那原正守さん。4人は、先代と同じように「ゆいまーる」の精神で開窯したのが、北窯でした。
Part 2
「やちむん」を継承することが、
生きる証で意味だった松田米司さん・共司さんインタビュー
師匠たちの窯の北側に起こしたことから、名前は北窯。開窯は、1992年のこと。今ではそれぞれが弟子を抱え、育てています。いちばんの特徴は、4つの工房が共同で使う大きな登り窯。登り窯とは、斜面の地形を利用して階段状に炉を連ねることで、炎の対流によって各部屋が一定の温度を保つように工夫された窯のこと。連房式と呼ばれる代表的な形態の北窯は、13もの房によって築造。その規模は、沖縄でも最大級と言われています。熱を効率的に扱うことで大量生産を可能にした登り窯は、進みゆく生産方式の機械化に抗い、手仕事によって大量生産を必要とした民藝の思想を象徴するものでした。
しかしながら均一な焼き上がりを可能にする、現代の主流のガス窯に比べて、窯焚きの作業が難しいのが登窯の特徴であり、魅力でもあります。つまり下部の焚き口に火の元を作って薪をくべながら、段々に続く炉内の温度を一定に保つには、気が遠くなるような経験と、職人の腕と勘が頼りです。その中で、いかに歩留まりを減らしながら、美しいものを多く焼き上げるか。自然のコントロールができないため、仕上がりの雰囲気が読みにくい登り窯から生まれる「やちむん」にこそ、北窯が愛される理由の一つがあるのです。
今回は、この地で「やちむん」を作り続ける双子の松田米司さん、松田共司さんにお話を伺いました。18歳の頃、多感な青春期にアメリカからの本土復帰を経験した2人は、沖縄で生まれ、育つことの意味を考え、自分のアイデンティティを探し続けた先に、この道に辿り着きました。
松田 米司
器に自然と沖縄が表現されて、
日常で使われたら理想です
「沖縄って、日本の南の端っこにある、長くてひょろっとした島って思われているでしょうけど、いろいろな影響を受けた中国からフィリピンあたりまで、一つの海洋民族みたいな気もするんですよね。そこに広がる文化圏ってのがあって、焼き物も入ってきた。多くの学者さんたちが言う通り、中国やなんやらの影響を受けながら、工芸の文化が芽生えたんだろうって思います。」
―その工芸の文化にはどんな特徴がありますか?
「なんていうのかな、いろいろと濃いんですよ。音楽もそうでしょう。島国というより、海を越えてずっと遠い国まで航海して、いろんなものを仕入れてきたイメージがあります。文化の様式は“ため”があるんです。日本の文化って、料理とかも“さらっとしてる”イメージなんですが、沖縄はずっしりと重たいというか。踊りでも足の踏み方1つにしても、トントンって感じじゃなくて、もっと重々しいというか。焼き物の特徴も同じだと思います。綺麗で可愛いものよりも、どっしりとして骨格が力強い。可憐で繊細な女性よりも、おっちゃん、おばちゃんが作るみたいなね(笑)」
―その感覚は、米司さんに生まれつき備わっているもの?
「もうそうにしかならない、みたいなところはあります。沖縄の土を使って沖縄のやり方で作る。その器をどこに持って見せても自然とこれが沖縄だと思われて、日常で使われたら理想ですよね。この特徴は、個人というより地域から出た1つの文化です。珍しいものではなく、使われるものとして認められる方が職人にとってはいいと思います」
―今でもそれを考え続けたりしますか?
「仕事で内地に行ったりして、自分の仕事を客観的に見る機会があると考えますね。自分の仕事はちゃんと地域性を出せているかな、とか。個人の表現よりも沖縄らしさをまず先に考えています」
―ご自身はあくまで作家より職人のスタンスですか?
「別にどっちだっていいんです。けど職人となれば、オリジナリティを出すのが難しい。地域のものですから、地域から奪ってはいけません、みんなで作りましょう、誰が作ってもいいんですよって。昔からそんな感じで教えられました。個人にしかないものを作るのが作家だと思うし。こう作りなさい、と師匠に言われて「はい」と言って作れて、腕が求められるのが職人。手に持ったときに個の名前が出てくるのではなく、掴み心地がよくて重々しい感じでいいね、ってなれば最高だと思ってます」
―その中で米司さんには「赤絵」という作風があります。
「赤絵は独立してから5年くらいでやりたいと思い始めました。琉球の古い焼き物や、いろいろな図鑑とか見て、これが沖縄だと響いたんです。それこそ山田真萬さんは完全に自分の世界で赤絵を表現していました。でも僕は壺屋出身ではないし、赤絵をやる系統でもなかったから、簡単に手を出してはいけない領域だな、と思い込んでいました」
「めんどくさいんですよ、赤絵って。まず、煙を嫌うんです。本当は煙を立てずに温度をあげて焼いた方が、発色がいいから、実は登り窯には向いていない。今はガス窯や電気窯があるから便利ですけどね。でも自由にできる時代に生まれたことで、やりたい衝動を抑えられなかった。中途半端にせず、一生懸命やれば先輩たちもきっと許してくれるだろうって」
―沖縄人であるからこそ、作風に誠実に向き合えるのでしょうか?
「やっぱりね、沖縄人であることの独特な感情はありますよ。戦争が終わって、やっと少し落ち着いた1954年に僕と共司は生まれました。自分の土地だったはずの畑が基地のフェンスで囲まれている中で育っていると、自分って何?日本って何?って思うようになり、自然と沖縄の文化に興味を持つようになりました」
―では「やちむん」は沖縄であることの表現方法ですか?
「沖縄の意味を深く考えて表現するようになったのは、ずっと後になってからかもしれません。とにかく最初は“自立”が目的でした。誰かに頼らなくても生きていきたい。単純な発想です。自分で作った焼き物で、社会と関わりながら生きる。関わりって大事です。自分で使う器なんて、1個あれば十分。でも、たくさん作って沖縄の文化を広げて、家族を作って、楽しく過ごせるんだったら、これはすごい仕事だなって。自分のものだけじゃ消化できない、どうしようもない大きな沖縄の文化に乗っかって、サーフィンみたいに進んでいく。焼き物なら、どこまでも行けそうな気がしていたんです」
コラムお気に入りの沖縄
座喜味城跡座喜味城は、琉球王国が日本と中国、東南アジア諸国との交易が活発になった15世紀初頭に築城されたと言われています。沖縄では、城はグスクと呼ばれ、今も多くの城跡が残っています。標高120mを超えるこの座喜味城跡は、不思議な開放感と地平線を望む景色をみて、のんびり過ごす時間を、米司さんは若い頃から楽しんでいました。
松田 共司
沖縄で生まれ、
生きる答えを探すために
焼き物を始めた
―どんな青春時代をお過ごしでしたか?
僕らの時代は、工芸に興味を持つ人は少なくて。もっと頭を使うような会社勤めがいいんじゃないって方向に進んでいた。戦争を経験した親から色々教わって育ち、沖縄が日本に返還されるっていう、際どい時代に生きてきた。若者たちは「自分はどうなるの?」って否応無しに問われていたんです。自分たちの意見が通るわけもなく、アイデンティティというか、正体がわからないままだった。米司はその頃からね、焼き物をやるって残ったけど、僕は、沖縄を捨てたいと思って、デザイナーって職業を目指して上京したんです。でもね、都会に慣れなくてすぐに帰ってきちゃった。東京で発見したことは、沖縄はちょっと面白いのかもってところかな。
―そして、沖縄の焼き物への道に
「大嶺実清さんと出会い、沖縄の人は、沖縄の土で器を作り、沖縄の食材を入れて食べる。それが自分たちの生き方じゃないかって言われて。なんか、宙に浮いているような気分になってね、自然と涙が出たんです。それが20歳になる少し前のことでした」
―それが1974年の頃ですね。そこから北窯を開くまでは?
「最初は首里の石嶺窯で5年位修行して、その後に大嶺さんの工房に8年ぐらいかな。普通の人だったら10年くらい(で独立)だと思うんですけど、僕はトロくて長かった。やっぱり焼き物が好きでこの世界に入ったんじゃなくて、どう生きればいいの?って答えを探して来たわけだから、やっぱり壁がくるよ。練習しても上達しない。すると嫌いになる。でもね、米司が我慢しろって。二人で朝9時から夜の12時まで修行したね」
―北窯への道のりは長かったんですね。ようやく独立されて、目指したものは?
「まずは、沖縄の焼き物をやりましょうってことで、土の配合とか登り窯とか、あとは沖縄で生きる意味をすごく勉強しました。でもね、伝統的なものを作りながら、そこから解放された瞬間ってじつは最高に気持ちいいんですよ。とくに大皿とか作るときはね。もちろんやりたい放題ではなくて、制約の中でのまとまりや美しさは、ある。でも引き出しが増えればアイディアには苦労しない。これは伝統的な手法のことだけど、いろんなことができる。例えば激しい指描きって、沖縄の伝統ではないんです。化粧指で落とすか、釉薬で落とすかとか、青写真を描きながら現実に近づけていくんですけど、引き出しを使いこなすことで、自分らしさが初めて表現できると思う」
―共司さんの深いブルーは、とても印象的です。
「そうそう。この色が綺麗だよねって、色々試して塗って登り窯で焼いたらこうなった。普通じゃね、こんな色は出ない。でも、どんなに出せない色でも荒い仕事でも、滑らかにしてくれるのが登り窯のいいところ。粗雑なところを消してくれるんで、僕にはとてもありがたい。僕がもし電気やガス窯で焼いたら、見れたもんじゃないかもね。米司はすごく丁寧だけど、僕は荒っぽいから」
―そうなると、共司さんの作品は少しアート寄りの発想ですか?
「いやいや、天才のピカソは人類のアートを担ったけど、僕らは凡人だから。何百年という沖縄の歴史が捨てられないから、やればやるほど生き残った形が見えてきて、初めて自分のものにできる。1代じゃ絶対に生み出せないものの上に、自分の感性っていうふりかけをかけるだけ。それって最高じゃないですか」
―では、民藝という言葉を意識しますか?
「民藝の美っていうけれど、一番美しいのは織物とかの染色の世界。なぜなら最も厳しい制約の中から生まれるものだから。それは柳さんもよく言ってた。一番醜いのは、個があまりに出すぎていること。何百年も続いてきたものは美しいものに近いから。米司は頭が良いから、土にしても何にしても制約の中でなるようにしかならないって悟って器を作る。だから気張ってないし、美しいよね。僕は矛盾を感じながらも、どこかで新しい可能性に挑戦したい自分がいる。で、怒られる(笑)」
―そういった可能性を広げることを、弟子に求めますか?
「今は、いろんな子が弟子入りに来ますよ。大学中退してきた子もいれば、一人旅の道中で住み着いた子、東京芸大の陶芸科を卒業してきた子もいれば、ソウル大学で陶芸を学んできた子が面倒見てくれって。土って包容力があるから、それぞれにあった仕事のやり方があるんです。でもね、ただ沖縄の土を使っているからって、形だけ真似ても沖縄のものにはならない。野球だと、ノックすれば球に飛びつけるようになるじゃないですか。焼き物も同じように、まずは体作りが必要。土に反応する体質というか能力というか。でも、いろんな人がいて、いろんな育て方があるから。沖縄の焼き物を学んでもらえたら、あまり深くは伝えないかもね。
コラムお気に入りの沖縄
渡具知の浜第二次世界大戦の時、この東シナ海を見渡す渡具知の浜からアメリカ軍は沖縄に上陸したと伝えられています。今はここには、公園やレストランがあり、地元の子供たちの遊び場にもなっています。日が沈む、神秘的な風景には心が洗われるようです。共司さんもまた、北窯を構えるずっと前の弟子入り時代から、満点の星を見ながら将来を考え、自分を解放する場所だったそう。
okinawa and yachimun
Part 3
沖縄の伝統を今に伝える、
新しい作り手たち谷口室生さん・菅原謙さんインタビュー
谷口室生さんと菅原謙さん、
2人は沖縄の出身ではありません。
ただただ沖縄の焼き物に惹かれ、読谷村に訪れて弟子入りをし、技術と感性を磨き、経験を積み、独立しました。
今では伝統を受け継ぐ期待の若手として、注目を集めています。
しかし2人の沖縄への愛着や想いは、違うかたちとなって表現されています。
今を生き抜く彼らが考えている「やちむん」の現在地と、その魅力を聞きました。
谷口 室生
沖縄の土と石と木を使って、
自由な表現をしたい
谷口室生さんは、1975年生まれ。画家であった両親は、実家で陶芸教室も開いていたそう。高校を卒業して渡米し、アメリカの大学を卒業。2002年に沖縄の地に足を踏み入れ、読谷山焼共同窯の山田真萬さんの元へ弟子入りしました。6年間の修行を経て、独立。2009年に読谷村よりやや北に位置する名護市で室生窯を開き、現在に至ります。
おおらかさの中に、大胆さと繊細さが入り混じっているのが、谷口さんの焼き物の個性。やちむんの伝統を受け継ぎながら、モダンな感性が表現されています。
「僕が独立したときは、ちょうど沖縄の器自体が盛り上がっていた頃でした。仲間にも取引先を紹介してもらったりして。運が良かったと思う一方で、沖縄の焼き物というだけで、こんな注目されて良いのかと思うことも正直ありました。もっと正確に仕事して、伝えなければと、身が引き締まる思いでもありました」
なぜ、ここまで沖縄がブームになったか、その理由を谷口さんは、冷静に見ていました。そしてそれが、自身の作風にも生かされています。
「土着的であって、何かしら宗教的であって。僕の言う宗教的というのは、民族性みたいなニュアンスです。それこそ松田米司さんや共司さんは、沖縄に対して誇りを持っていて、文化的なものをとても大事にしている方たちでした。僕は出身が福岡ですが、育ちがどことかを意識したことはありません。その方が、沖縄は溶け込みやすい。逆にナショナリズムみたいなものを背負い過ぎると、ここは抵抗があると思います」
谷口さんは、沖縄の魅力を「外のものをおおらかに捉える文化」と言います。その懐の広さは、受け入れることで自分たちにミックスしていく許容の広さでもあります。先入観や固定観念が強すぎると、逆に戸惑いを感じやすくなる。
「南方や中国、朝鮮半島や薩摩。いろいろな焼き物が流入して、自分たちのものにしてきたんです、沖縄って。それは内地を見渡しても、すごく特殊で魅力的。だからか、沖縄の人たちはすごく人付き合いが上手。でもその一方で、意思表示を曖昧にすることで外のものを大らかに捉えている。僕自身、仕事には自分に距離を置き、客観視して取り組むように意識しているので、勉強になることが多いですね」
色々な文化が混ざり合って育まれた沖縄の伝統に、室生さんはさらに自分の特徴を加えています。古いものから引っ張り出して配色を変えたり、ちょっとやり直したり、そのバランス感とアレンジが、人気の理由です。
「色々なものから着想を得ています。染色だったり、焼き物も古いものやヨーロッパや中東のもの。幅広い視点で、使えそうな要素は取り入れます。その中で、僕が大事にしているのは、焼き物はあくまで土と石と木、この3つでできていること。これはすべて沖縄で賄えるものです。この固有の材料を扱うノウハウこそ、先人が残してくれたプレゼントだと思ってます。“沖縄はこうであるべき”と決めつけるのはあまり好きではありません。もっと自由でいいと思います。師匠たちは、それを自然体で表現してきたのではないでしょうか。最も彼らは天才ですので次元が違いますし、沖縄で生まれ育ったからこそ、無意識で出来ることもあるでしょう」
沖縄の器は、おおらかな人格が健康的な色使いや柄のタッチに表れています。肩肘張らない、素朴な美しさだからこそ、谷口さんのモダンな感性が入り込む隙が、受け入れる許容があるのではないでしょうか。
「先人たちは、良い意味で深いことを考えずにやっていたとも思うんです。肩が張っていないというか。自由なんですね。僕は絵付け1つとっても、バランスを図ってしまうタイプ。でも、やはり大切なのは想像力だと思っています。民藝はすごく好きで、意識しているところは多いですが、過去のものを量産するのではなく、人間のイメージする力を大切にしたいと思っています」
コラムお気に入りの沖縄
嘉陽の浜名護市の東側、海岸沿いにある嘉陽集落には、美しいビーチが広がっています。すでに廃校となった嘉陽小学校のすぐ近くには、東京オリンピックの聖火が宿泊した記念碑が建てられています。谷口さんは、ここで家族とキャンプをしているそう。「海を眺めているとリフレッシュできるし、やっぱり沖縄が好きだなって思います」
菅原 謙
登り窯と土作りと蹴ろくろで、
沖縄の伝統を継承したい
大阪府出身の菅原謙さんは、沖縄県立芸術大学で陶芸を学び、卒業してからは京都で陶工のキャリアをスタート。7年ほど経った後に、再び沖縄へ戻ってきました。その後、松田米司さんに、沖縄の焼き物を学ぶ道を選びます。弟子入り3年、その後、様々なキャリアを積んで2013年に独立。北部の大宜味村で共同の登り窯を築窯し、年に4回のペースで焼き物と向き合っています。
菅原さんは、ただただ沖縄の焼き物を実直に追い求める、現代には珍しいタイプの職人かもしれません。しかし伝統的な染付や模様を、ご自身の感覚で再現する間には、菅原さんにしか表現できない「何か」があります。何種類もの土を混ぜ、自分の手で理想の原料をつくり、自らの足で蹴ってろくろを回し、感覚を頼りに登り窯を焚く。その姿を見て、誰よりも「やちむん」への強い思いを感じることができます。
「最初は、そこまで強い気持ちはなかったかもしれません。家で土産物のマグカップなどを使っていて、あ、沖縄の焼き物を勉強するのもいいな、と思った程度。1年くらいは別の工房でアルバイトしながら、ある年に読谷村の陶器市に行った時に、米司親方の器がいいな、と思って購入しました。それがきっかけで募集があったので入りました」
北窯へ弟子入りしたのは、30を過ぎてから。決して早い方ではありませんが、沖縄の器に誰よりも魅力を感じています。
「米司親方の優しい人柄が、作風に表れていると思います。親方は、アメリカの統治下にあった激動の時代のことをよく話してくれました。自分は、その当時を知らないし、まして沖縄出身でもありません。共感はできても、理解できるかって不安はありました。でも、弟子入りした時は約半分が県外出身でしたので、まあのびのびしていたと思います。とにかく、自分も早く沖縄の焼き物を作りたい、学びたい。ただそれだけでしたので、親方のよくいう社会的な背景を考える時間は、そんなになかったです」
そして独立。4つの工房による共同の登り窯は、2015年に完成しました。北窯からはるか北にある大宜見村の、人里離れた小高い丘の中腹には、作陶に集中できる環境が揃っています。とくに原料の土が豊富です。しかし手に入れた原土をろくろにかけるまでに、1ヶ月以上もの時間を要するとか。
「もともと縁のない土地でしたが、行政の理解もあって、共同窯というかたちで村が土地を貸してくれました。自分たちがこの場所で成功すれば、もっと多くの人が入ってくるんじゃないかと思っています。裏にある赤土は、沖縄ではよく採れるもの。鉄分が多く、粘り気がそこそこにあり、火に強いのが特徴です。これをベースに、4種類、それぞれ性格の異なる北部で採れる土を調合しています。水に浸すこと1週間、泥水にした後に石や砂などの粒子の粗いものを沈ませて、残った細かい粘土になるものをさらに水に浸けて、上澄みだけを戻すことの繰り返し。その後に水を抜く作業があります。昔の赤瓦の上に置くと、よく水を吸ってくれますが、とても時間がかかります。さらに、足で踏んで土の固い部分と柔らかい部分を均一になじませ、手で揉んで空気を抜き、いい加減になったら初めて工房に入れます。
工場などではフィルタープレスという圧縮して水を抜く機械もあるそう。しかしここにはそんな設備はありません。極めて原始的な、自然の力を頼りにすることで、精密なコントロールができない登り窯の魅力が組み合わさり、沖縄らしさが生まれます。厚ぼったくてゆったりとした、どこか光沢のある器は、唯一無二の素朴さが魅力です。菅原さんは、特別に好きな模様や色はないそう。とにかく過去の資料や文献、そして現物を参考にしながら、昔ながらの方法で、伝統を追求しています。
「見た目の雰囲気は、やはり登り窯で焼く影響は強いと思います。しかし、ここは北窯で使っていた土とは違います。手に入る原料で作らなくてはいけません。でもその考えを学ぶことができた北窯の教えは生かされています」
コラムお気に入りの沖縄
末吉宮那覇市内にある自然に囲まれた末吉公園内になる末吉宮は、琉球8社の1つとして知られており、パワースポットとしても有名。山頂に位置するため、参拝するには少し距離がありますが、拝殿の手前から望む絶景も魅力的。菅原さんは、若い頃、よく1人で散策していたそう。
2019 OKINAWAN MARKET
原宿の「インターナショナルギャラリー ビームス」にて、毎年恒例となった沖縄の陶器“やちむん”を数多く集めた人気イベント『2019 OKINAWAN MARKET』を開催します。琉球張子、わらびかごなどの雑貨や、柿ピー黒糖ミニ、かめせんといった食品も多数取り揃えご紹介します。
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作家紹介