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ビームスが思う理想の男性像

"MR_BEAMS"とは、ファッションをきちんと理解しながらも、
自分の価値観で服を選べる
"スタイルをもった人"のこと。
と同時に、決して独りよがりではなく、
周りのみんなからも「ステキですね」と思われる、
そのスタイルに"ポジティブなマインドがこもった人"のこと。

今回立ち上げたオウンドメディア#MR_BEAMSには、
私たちビームスが考える理想の大人の男性像と、
そんな理想の彼が着ているであろうステキな服、
そしてMR_BEAMSになるために必要な
洋服にまつわるポジティブな情報がギュッと詰め込まれています。

本メディアを通じて、服の魅力に触れていただいた皆様に、
ステキで明るい未来が訪れますように……。

細部に宿る、服

a fashion odyssey | 鶴田啓の視点

細部に宿る、服

 

「味は部分で 感じは全体」

これは、かの高名な陶芸家・濱田庄司による言葉である。
続けて「味をいう人は、見方はこまやかでも、どこか品物に捕らわれている。感じで見る人は、離れて自分の角度でぶっつかっている」とも言っている。
(雑誌『民藝』第793号より引用)

また、一方では「神は細部に宿る(God is in the Details)」という言葉もある。これはドイツ人建築家のミース・ファン・デル・ローエをはじめ、ル・コルビジェやニーチェなど様々な人物が口にした言葉である。

これらの言葉をまとめると「神は細部に宿るし、美しいものは細部まで抜かりなく作られているのだけれど、細部ばかりを執拗に目で追ってみたところで全体の美しい感じに気付けるとは限らない」といったところだろうか。洋服に置き換えるならば「運針数が多く細やかなステッチが綺麗に真っすぐだからと言って、必ずしも着てみたくなるほど魅力的なシャツだとは限らない」でもあり、「パッと見の感じだけを気にして細部の作りや整合性を無視すると、結果的に全体が美しくない」でもある。「木を見て、森を見ず」と「森ばかり見て、そこに何の木が生えているかを見ていない」。「全体」と「部分」。両立させる目を養うことは、なかなか難しいものである。

 

少し視点を拡げてみよう。一着のシャツを「部分」として捉えたとき、そのシャツがコーディネートという「全体」の中でどのような細部になっているか、である。さらに拡げて見ると、そのコーディネートで出かけた自分を「部分」として見たときに、その場の群衆という「全体」の中で自分はどのように見えているか、という視点でもある。例えば結婚式でもパーティーでもよい。招待客100人の中のひとりである自分がジャケットの中に着ているシャツの生地やステッチを凝視して「いいシャツですね」と声をかけてくる人はやはり「品物に捕らわれている」のだろう。勿論、そのような(極端、かつ失礼な)人は存在しないと思うが…。

むしろ「全体」の中で目に付くのは、さりげなく(椅子を引くなどして)スマートに女性をエスコートする姿であり、食べ方の作法であり、周りへの気配りを怠らない瞳の動きだったりする。エレガントなその人の姿をなんとなく目で追ううちに、実は仕立ての良いジャケットを羽織っていることに気づき、握手を交わしたときにチラリと見えた控えめな時計の趣味の良さを確認し、すぐ上にあるシャツカフスのステッチに流麗な仕事が施してあることに舌を巻く。全体の美しさを感じて、その細部に目線を落としてみたところ、やはり神は宿っていたのか、と。これは、例えばFRAYのシャツを見るときにまずは圧倒的な全体の美しさに目を奪われ、次にステッチやボタンホールを見て更に納得するのと同様であり、その順序は逆になる事が決して無い。勿論、着心地という「着ている本人にしか分からない」部分では密やかな贅沢として、確かに存在するのだが。しかし洋服はあくまでも人生の一部である。より細かく縫う事だけ、より高度な技術を盛り込むことだけを目的にした洋服からは、着る人がどこか置き去りになっている感じがするし、僕らが洋服を着る理由はそこにない。運針数が30を超えるFRAYのシャツは紛れもなく世界最高峰の完成美を誇るものであるが、それはアメリカ製ボタンダウンシャツと比較してステッチの多さや糸の細さで優劣を競うために用意されたものではない。FRAYとBROOKS BROTHERSでは必要とされるシャツの質が異なるからである。すなわち着方のスタイルが違うということ。3㎜以下に極細で巻かれた玉縁も、ふんわりとカミーチャで取り付けられたジャケット袖も、1インチにつき36もの針穴を通す精密なステッチも場合によって必要であり、場合によって必要ではない。濱田庄司の言葉になぞらえるならば「服は部分で 人は全体」ということになろうか。

洋服の細部とは、人が自分の生に「自分の角度でぶっつかっている」ときにだけ、静かな一助となるものである。声高に叫ばずとも、いつか自然と自分に返ってくるのだと思う。

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