
BEAMSが出会った沖縄をお届けします。
日本の「宝の島」である沖縄は、長い間私たちを魅了し続け、その風土を感じさせてくれる美しい品々は、私たちのライフスタイルを豊かにしてくれます。沖縄のファッション・工芸・食品など生活にまつわるさまざまなものに、以前から注目しご紹介してきたBEAMSが、沖縄の魅力をあらためて皆さまにお伝えします。
BEAMS初のトラベルガイドブック「BEAMS EYE on OKINAWA−ビームスの沖縄。」を3月15日(木)より発売。BEAMSならではの視点で切り取った、本当に知りたい沖縄の現在が詰まった一冊になりました。
価格 ¥1,600(税別)
BEAMS店舗、主要書店にて絶賛予約受付中!
※BEAMS店舗で本書をお買い上げいただいた方には先着でノベルティ(バッグ)を差し上げます。
■代官山 BEAMS EYE on OKINAWA
開催日程 : 2012年3月15日(木)~3月31日(土)
会場 : 代官山蔦屋書店
■渋谷 ビームスの沖縄。刊行記念、佐伯ゆうこ原画展
開催日程 : 2012年3月15日(木)~3月31日(土)
会場 : SHIBUYA PUBLISHING BOOKSELLERS
■青山 ビームスの沖縄。刊行記念、木寺紀雄原画展
開催日程 : 2012年3月20日(火・祝)~4月2日(月)
会場 : 青山ッブックセンター
■銀座 BEAMS EYE on OKINAWAービームスの沖縄。
開催日程 : 2012年3月19日(月)~4月9日(月)
会場 : 銀座わしたショップ
"デザインとクラフトの橋渡し"をテーマに、日本を中心とした伝統的な手仕事と、
主に北欧などから集められた新旧デザインを融合するスタイルを提案する
BEAMSのレーベル<fennica>。
バイヤー北村、テレンス・エリスの沖縄でのバイイングを通して
BEAMSが出会った沖縄を体感してください。
沖縄の魅力は、青い空と白い砂浜だけではありません。
固有の文化や風土があり、それを育んできた人たちのあたたかな営み、そして笑顔があります。
著名人からローカルまで、さまざまな人の目をとおして、BEAMSが出会った沖縄を紹介していく
「BEAMS EYE」。
このコラムでしか読めない情報に、どうぞご期待ください。
沖縄は日本の中でも移民の割合が高いということは県外ではあまり知られていないのではないだろうか。たいてい親戚に少なくとも1人ぐらいはハワイか南米アメリカに移民したおじさんやおばさんがいて、親類が集まる機会があるとたまに彼(彼女)らの話が出る。ブラジルで農場を経営している叔父がこの前帰って来てたよ、というような。小さい頃大人たちが、遠い見知らぬ国に住む彼らのことを話しているのを聞くと不思議な気持ちを抱いたもの。
沖縄をルーツに持つことになる、その移民1世の子や孫にあたる2世、3世は世界各地に散らばっている。現代アメリカの陶芸の世界で最も著名なタカエズトシコもまたその移民2世の一人だ。具志川市(現うるま市)出身の両親がハワイへ移り住み、そこで陶芸に出会い、作品を作り続け独自のクローズド・フォームという口の閉じた、通常の壺や陶器とは異なるものを生み出したことで知られている。
2010年に沖縄県立博物館・美術館で行われた『タカエズトシコ展:両親に捧ぐ』の図録『TOSHIKO TAKAEZU : In Memory of my Parents』によると彼女は自身の生活の中で野菜作りや料理、作品作りを等価のものとして大切にしていること、その暮らしぶりが自然に即したものであることが分かる。展示では「冬瓜(沖縄ではスブイと呼ぶ。ゴーヤーと同じくらい日常的な野菜)」という作品が話題になった。日常の続きとして土に触れる生活。それが成り立つのは豊かな自然に恵まれた場所。自然や偶然に委ねる彼女の作風は、自身のルーツが沖縄とハワイにある、ということと無関係ではないだろう。
日常に自然が生きている場所ではいい土・陶器が生まれやすい。ここ沖縄の多くの窯で「焼き物(やちむん)」が作られ続けているのもそのためだろう。
「ビールにする、それともシマーね?」
「は? シマー?」
沖縄に引っ越してきた10数年前、初めて沖縄の人たちと飲んだときの先制パンチ。オリオンビールぐらいしか知らない沖縄初心者の私は、ポカンとしてしまう。
地元の愛すべきモノに「シマ」という定冠詞(と言っていいのか)が付く言葉が沖縄には多い。昔ながらの製法を守る「島豆腐」をはじめ、「島唄」「島サバ(ゾウリのこと)」「島ニンジン」「島ダコ」…など、身近なところに「シマ」はあふれている。
冒頭の「シマー」は、沖縄の地酒「泡盛」を指すに決まっている、とそのとき知った。「サケ」も付けずに「シマー」で通じるのだから、「泡盛、どれだけ愛されてんねんっ」と突っ込みたくもなるところ。
その後の飲酒生活で、「シマー」には、深〜い味わいがあることを知った。
「シマ」という言葉には「地元」という意味もあり、沖縄の島々に、それぞれの「シマー(泡盛)」が存在するのだ。沖縄本島の各地はもとより、北部の伊平屋島から最南端の波照間島、最西端の与那国島まで、島々の酒造所を数えていくと、なんと47(+1協同組合)もある。そして、それぞれの地域(シマ)の人は、地元のシマーに特別な愛情を持っているというわけ。
同じ原料を使い、同じ製法で醸されるのに、「なんでよ?」と思うほどに味も香りも異なるシマーたち。しかも、同じシマーでも酒器によって、香りの立ち方や飲んだときの印象がガラッと変わるから驚きだ。
たとえば、ガラス質の釉薬がかかったおちょこで飲めば、どこかトンがった味が、アラヤチ(荒焼)と呼ばれる高温で焼き締められた器に替えると、丸みを帯びたやわらかい味にサッと変身する。うひー、なんで? それから同じ琉球ガラスのグラスでも、飲むときに鼻までかぶるような大ぶりなものと、スレンダーなグラスでは味が変わってしまうのだ。
そんなこんなを面白がって飲み歩くうちに、3年以上熟成させた古酒(クース)にも出合ってしまった。これは一般酒と呼ばれる泡盛とはベツモノかと言いたいぐらいの濃密な味わいで、大きなお祝いや大切な年中行事に欠かせない特別な存在。そしてそれは、「飲む」のではなく、「舐める」もの。親指の先ぐらいの小さなおちょこに入れて、まずは香りを楽しみ、それから舌の先にのせてゆっくり味わい、喉の奥で楽しむものなのだ。
熟練の泡盛愛飲家の言葉を借りると「いいクースは、喉の奥へコロコロと転がっていく」のだそう。うむむー。転がる古酒にはまだ出会えていないけれど、島々のおいしいシマーと、それにピッタリの器を探して歩くには、沖縄のシマはまだまだ広いのだ。
伝統あるうるま市の平敷屋エイサー。高く手を挙げて振り下ろす一糸乱れないバチさばきで魅了
「イーヤーサッサ!」
と威勢のいい声が町中に響き渡る。住宅街を練り歩くエイサーは、沖縄の夏の風物詩だ。
エイサーは旧盆の時期に先祖供養を目的に行われる伝統の踊り。青年会を中心に、沖縄各地でエイサー団体が結成され、若者たちが踊りながら町を歩く(移動しないで会場で踊る地域もある)。
衣装や踊り方は、地域によって様々だ。主に男性は、太鼓を持って踊る。大太鼓を持って勇ましく舞う者もいれば、パーランクーと呼ばれる小さな太鼓を叩きながら軽やかに踊る者も。女性は、手ぶらで手踊りする者もいれば、四つ竹や手拭(ティサジ)など道具を使って踊る人も。踊りは、繁盛節(はんじゅうぶし)や仲順流り(ちゅんじゅんながり)などの沖縄民謡に合わせ、三線を弾く地謡を軽トラックに乗せて、賑やかに進んでいく。
エイサーが行われるのは夕暮れから夜にかけてだが、真夏の沖縄は、太陽が沈んだ後も、ただただ暑く、じっとしていても額から汗が流れる。この亜熱帯の暑い夜に若者たちは、何時間も踊り続けるのだ。
住民と踊り手が一つになった熱気あふれるエイサー会場。踊るのは道化役のチョンダラー
僕は、このエイサーを眺めているのが好きだ。エイサーの日になると何故か、チムドンドン(※注1)してしまう。暑い中、一心不乱に踊る若者たちの姿にひかれるのはもちろんだが、そのエイサーを取り囲む、町の住民たちの姿を眺めているのが楽しい。
今か今かと待ち続け、エイサーの声が近づくと、普段はあまり外に出ないおばあちゃんも、心を躍らせて表へ出る。今は亡くなってしまったが、妻の祖母もエイサーが来る日は、いつも以上に元気なように見えたものだ。
チョンダラーに抱きかかえられ泣きわめく娘。喜屋武エイサーにて
子どもたちにとっては、彼らはヒーロー的存在で、目を輝かせてその踊る様を眺めている。「いつかはボクもあの中で、踊りたい」、そんな声が聞こえてくるかのように、近所のニーニー、ネーネーの踊りを見つめる目は真剣だ。
それを眺めながら毎年、「良い光景だな」と思う。老若男女、年齢も関係なく、この日は町がひとつになっている。
僕の地元、愛知県岡崎市にも小さいながら地域のお祭りはあった。小学6年生の上級生たちが中心となり、獅子の面を被って各家を訪問する。僕はその獅子が怖く、少し離れて、上級生の後を付いていっていたが、何となく、普段よりも気持ちが高揚していた記憶がある。普段はあまり見かけない近所の大人たちとも顔を合わせ、「この大きな家には、こんな人が住んでいたのか」、子ども目線で観察していた。
エイサーは、地元のお祭りと比べものにならないくらい、規模がとにかく大きく、参加者は高校を卒業した10代、20代前半の若者が中心だ。
旧盆前は深夜近くまで練習している姿を見かける。先輩が後輩を教え、その後輩が次の後輩へ。小学校卒業以来、地元の先輩と交流を図ったことがない僕からすれば、これはかなりうらやましいことだ。エイサーという伝統の踊りが、世代を超えて、人のつながりを作っている。人と人の結束が強い、沖縄社会の基盤は、「ここから生まれている」といっても決して大げさではない。 地域のつながりは、未来のまちづくりにも欠かせない。沖縄の魅力にまたひとつ、心を動かされ、僕の地元の小さなお祭りも続いてほしいと願った。
現在、沖縄のどの地域で続いている風習なのか情報は定かではないけれど、新正月と旧正月の間に、「16日」という、もうひとつの正月がある。あの世の正月をこの世の家族がお墓の前で祝うもの。私の祖父母の出身地である大宜味村では「16日」の習慣がまだ続いており、皆が集まりやすいように新暦の1月16日を過ぎて一番はじめの日曜日に開催する、というのが基本的なルールである。だから新正月が終わると、わたしの周辺では「今年の16日は何日だったっけ?」と、知る人ぞ知る会話が繰り広げられる。今年のそれは22日であった。
沖縄の祖先崇拝の軸となる、父系家族の門中(親族共同)墓として骨壷が安置されている独特の亀甲墓の形状は、女性の胎内を表していると言われ、墓の入り口は生命の胎内回帰の意味とも伝えられている。
「16日」は、この世のお正月と似ていて、お線香片手に隣近所や親戚のお墓へ次々と年始の“挨拶まわり”を行う。お墓の前にはお重箱やお菓子、果物をお供えしお墓の前の広場でござを敷き、皆でいただく。“挨拶まわり”の訪問先は、近い親戚のお墓数件に加え、いわゆる“区域の開拓者”のお墓にも手を合わせる。回る場所は、代々がその親の後ろについて歩いて覚えたもので、うっかり墓の主を言い伝えることなく、先頭に立っていた人が他界することもある。
今回、お参りの最後のお墓に線香を立てると、ふと叔父が、 「実は、このお墓だけは誰を祀っているのかわからないんだよ」と実に不謹慎なことをつぶやいた。一同「えっ?」と顔を見合わせたものの、やはり誰もわからないからみな同罪である。でもきっと、次世代の子孫もこのお墓参りを受け継いでくれることだろう。だれそれの墓であることや家系図を追求しないまま、手を合わせることになんの抵抗がないのも、親戚の多い社会ならではの感覚なのかもしれない、と叔父をかばいたい。
ある家族は、訪問するべき門中名(親族名)がマークされたお墓の位置図を持ち、それに従って巡回していた。「あの地図、僕らも欲しいよね」と羨望の眼差しを向けていたのは、長男として将来この習慣を受け継ぐ立場にある、若干29歳の従兄弟である。
次に浜辺へ降りて、辺戸岬方面、今帰仁城址方面、そして首里城方面と、あと海の遭難で亡くなった人々へ向けて手を合わせ、最後に我が家の墓へと戻り、ウートートーする。この厚い石壁の向こうには、先祖7世代に渡るおじいちゃん、おばあちゃんたちが眠っている。大好きだった私の祖父が向こうに仲間入りして4年になるのか。もう4年もたつのに、と思いながらもあの笑顔と大きな声に、久々に再会したような感覚に包まれて、そうするといまだに少し涙が出てしまう。
世界各地の多分にもれず、長男の嫁は「16日」をはじめとした、トートーメーという、先祖信仰の厚い沖縄独特のたくさんの風習を運営していく業務が受け継がれる。しかし時代とともに、家族の人数や形態自体も様々になり祖先信仰の習慣への解釈や方法も変化しているのも現実。 行事もお墓自体も簡素化される背景には「こどもたちの時代にはせめて、そんな苦労から開放してあげたい という親心もあるのだと思う。
県外の次男嫁となった私は、トートーメー問題に意見など言う立場にないが、先祖と親戚が一緒にこの時を共有しているような団欒は久々に実家へ帰省したようなシンプルな安堵感を与えてくれる。森羅万象、八百萬の神、そして先祖。見えないもののチカラ、見えて恵みを与えてくれるもの、触れて感じるもの、思い描いて愛情が続くもの。そんな信仰に我が身が守られて、今この世に生きる人々との絆も深まっていく。あの世とこの世の境界線がすこしぼやけてしまうようなこの習慣と場所があることが心のよりどころとなり、感謝や祈りの気持ちが湧いてくる。
新暦の新年同様、また改めて、背筋を正すのである。
85年頃、ダイビングのインストラクターとして訪れた沖縄。暮らしはじめたのは沖縄本島北部のフクギ並木で有名な備瀬の小さな集落。ここはフクギ並木の中に瓦屋根の家々があり、朝食の支度の音や子供たちのあいさつの声、縁側で寝ている人、日陰でゆんたくするおじぃやおばぁたち…世の中はバブル期に向かっていたが、ここはまるでタイムスリップしたように、どことなく子供の時の懐かしさを感じさせてくれる場所であり、転校が多く田舎のない私には故郷のように、ゆっくりとした時間が流れていた。
その並木の間にある白い砂の道を抜けていくと目の前には、紺碧の空に白い雲、そして青い海が広がる。海中にはサンゴ礁と魚であふれ、人々は海で潮干狩りや漁をしている。夜になると魚貝類が食卓に並び島酒が用意され、どこからともなく聞こえてくる三味線の音色に酔いしれると島の夜は更けていく。・・・そう、ここが私の「沖縄の原点」。そして、偶然かもしれないが、備瀬の近くには建設関係の仕事をしていた父が沖縄復帰後に携わった橋“瀬底大橋”が開通した……。
それから26年、錆びたオンボロ車で舗装の悪い道を走ることもなくなり島は暮らしやすくなったが、少しずつ失ったものがあるような気がする。これからも失うものもあるかもしれないが、沖縄から教わったもののほうが、もっと多いのかもしれない。日々の沖縄の生活のなかで海からはじまった撮影も、島にある川や山などの自然、人や家族そして文化がつながり、その全体が一つとなって沖縄なのだろうと少しずつ撮影も変わってきた。これからも私の中にある「沖縄の原点」を探しながら一瞬、一瞬を切り取って残していこうと思うのである。
立ち上がってカチャーシー(沖縄の手踊り)を踊る人々。ステージに向けて指笛を鳴らし、大きな歓声と拍手を送る人々。そして、久しぶりの再会を喜ぶ人々…。
昨年10月。沖縄で開催された「第5回 世界のウチナーンチュ大会(※注1)」の閉会式・グランドフィナーレの光景は、まさに舞台と客席が音楽と踊りと笑顔で一体となった祝祭そのもので、初めて参加した私にとって心に深く染み入る体験となった。
移民をテーマにしたBIGINの『パナマ帽をかぶって』という歌があるが、沖縄は日本の中でも有数の移民県としてしられている。1990年、経済的な苦境から26名の方が出稼ぎを目的にハワイへ渡航したことをはじまりに、南米、北米など世界各地に多くの県民が旅立った。現在では約40万の県系人が海外に在住しているといわれている。
ウチナーンチュ大会は、こうした世界各地のウチナーンチュが母県に集まり、交流を広げ、絆を確かめ合う大イベントだ。期間中、県内各地では歓迎会や交流イベントなどの多彩な催しが繰り広げられ、島は大きな盛り上がりを見せていた。
そして、大会最終日の閉会式・グランドフィナーレ。地元の子どもたちの歌と踊り、獅子舞やエイサーなどの伝統舞踊、先述のBEGINやディアマンテス、喜納昌吉などの沖縄出身ミュージシャンによるライブが行われ、会場は感動と歓喜のエネルギーに溢れていた。
沖縄の音楽と踊りの力。世界各地のウチナーンチュと、この島に暮らす人々の心の絆。それらが重なって生まれる強烈なグルーヴ感に「この瞬間に立ち会えてよかった」と感じた。
地元の新聞によると、第5回大会には世界23カ国2地域から史上最多の5194人が来県。5日間で延べ41万8030人が来場したそうだ。国境をこえた祝祭は、沖縄のよさと新たな一面が発見できる機会にもなることだろう。
焼物の魅力を語る上で、様々な要素があると思います。形状・色・柄・感触・重量・地域性などなど、いくつかの要素が絡み合って、その印象を決定していくのでしょう。あくまでも私見ですが、沖縄の“ヤチムン(焼物)”においては、何よりも柄(絵付け・装飾)に尽きると思ってています。それ程にヤチムンの柄には魅力的なものが豊富に、沖縄らしさを感じさせる力強く・美しく・大らかなものが溢れています。同じような用途のものを持っているのに関わらず、柄に魅かれて……、ついつい手が伸びてしまいます。器好きにとって、非常に危険な場所です(笑)。
誤解を招きたくないので補足ですが、ヤチムンは形状や手に持った時の感触も、とても魅力的です。沖縄の豊かさを象徴するかのような柔らかな曲線は、言葉では表せないほどに素敵です。それらと柄が相まって魅力を増すのですが、他の影を薄めるほどに、柄が素敵というわけです。
そんな豊富な装飾法の中でも、ひときわ目立つのは“赤絵”と呼ばれる絵付けです。通常の絵付けは、焼成の前段階で施されますが、赤絵においては一度目の焼成後に絵付けされ、その後に二度目の焼成を要します。使う色によって二度の焼成を必要とするので、他の装飾法に比べて更に手間が掛かってしまいます。しかしその手間に見合って、他にはない独特の魅力を放つので、これまでに沖縄では数多く作られてきたのでしょう。ちなみに赤絵は沖縄に限ったものではないのですが、沖縄の黄色味掛かった白化粧(白泥)にとても合うので、個人的にはどこの赤絵よりも魅力を感じます。
写真にあるのは、読谷村“北窯”の松田米司さん。米司さんは、赤絵の器を数多く手掛けることで知られていますが、昨年末に北窯を訪れた時に目を奪われたのが、この赤絵の大皿でした。伸びやかな線・お皿の中に収まる柄のバランス・配色、すべてが見事です。米司さん本人も概ね満足のようでしたが、ご本人は「まだまだですよ」とのお話で、つい最近にある重大な事に気付いたことを興奮気味に教えてくれました。そのことが印象的だったので、少しだけお話ししたいと思います。米司さんは、何年も試行錯誤しながら赤絵に取り組んでいて、ここ数年は壁に当たっていたそうです。しかし、ある日を境に『線の書き始め(始点)の逆』に気付き、目の前の視界が開けたそうです。聞けば「なるほど」といった感じですが、長年当たり前だと思っていたことの落とし穴に気付く難しさは、僕にも多少なりとも理解出来るので、立場は違えども共感を持てたことで米司さんにますます興味が湧いてきました。これからの米司さんの赤絵が、さらに楽しみです。
話は変わりますが、現在制作途中の沖縄ガイドブックでは、“ヤチムン”に関わる場所や事柄が、多く取り上げられることでしょう。僕も一部取材に立ち会っただけなので、全貌は掴めていませんが、まず間違いなく充実したヤチムン情報が盛り込まれるはずです。そちらもお楽しみに。
「コザに連れてって」と最近よくお願いされます。おそらく周辺に住んでいる人以外コザで飲む機会は少ないと思うので、ここはPRのためにもと朝までがんばっております。地元に住みながらゲート通りで飲んだことのない人も大勢います。「ちょっと恐いし、米兵向けのお店は入りづらい」。だから案内人がいれば一度は遊びに行ってみたいとのことです。
今はそんなことありませんが、たしかに昔は恐かった。女のコが一緒だとナンパされまくり、酔っぱらいにはからまれるし、通りでは時たま米兵同士が本気で殴り合いしていました。雄叫びを上げ騒いでいるのは今も変わりませんが、規律が厳しくなったのか、最近の兵隊さんは比較的おとなしく、陽気でイケメンなお兄さん、お姉さんばかり。冬でもTシャツ1枚の人が多いのはちょっと不思議ですが…。
1軒目南米料理か台湾料理店、2軒目ライブハウス、3軒目バーでクールダウンというのが基本的なコザの入門コースです。「JET」はオキナワンロック全盛の頃から活動を続けるハウスバンドが大人気のライブハウスで、ストーンズやディープパープルなど、70年代あたりのロックが好きな人にはたまらない店。そのレベルの高いサウンドを聴いて欲しくて、必ず一度は連れて行きます。最近の注目は「CLUB QUEEN」のハウスバンド「プリズム」。フィリピン出身のバンドですが、あまりの上手さとクイーンやジャーニーなどの80年代ロックの懐かしさに、ゲート通りでは珍しく、米兵ではなく地元のおじちゃん達で賑わっております。ベトナム戦争の頃に建てられた建物がいい感じに寂れて、そのすり切れた箱の中でガンガンのロックを聴き、ビールをラッパ飲みする。Barもまた長いカウンターにビリヤード台という、見た目アメリカ映画そのものの世界ですが、漂う空気感は世界中どこにも存在しない、コザ独特の雰囲気を作りだしています。
慣れた人が行く場所。それはその土地の地元の人が行くようなスーパーマーケット。
そこへ行けば観光名所では知ることの出来ない人々の日々の暮らしが垣間見れる。特に食材を見ると面白い。今ではすっかりお馴染みとなったマンゴーを始めとする果物や野菜の色彩は目を楽しませてくれる。ずらりと並んだSPAMやコンビーフ、キャンベルスープの缶詰も沖縄の人たちにとっては卵や牛乳と変わらない普通の食材の一つだ。
お店に並ぶものを見てその土地の季節を味わうことも出来る。例えば、もし冬に(旧十二月八日ごろ)沖縄を訪れることがあれば、市場はもちろんのこと、小さな商店にも清涼な香り漂う月桃の葉に包まれたお餅が並んでいるのを目にするはず。ムーチー(鬼餅)と呼ばれるこの餅は悪鬼払い、健康・長寿祈願の行事として各家庭で作られるもの。水、砂糖を加え捏ねたモチ粉を適当な大きさにし、サンニン(月桃)と呼ばれる葉に包んで蒸す。家でたくさん作った場合は近所や友人に配って回っては逆に多くもらって帰ってきたりする。その包み方や餅の柔らかさ・甘さが各家庭で微妙に違うので食べ比べるのも楽しい。今ではウコンやかぼちゃ、あずき入りまで多様なムーチーが出回るようになった。個人的にはやっぱりシンプルに白か黒糖、紫(紅芋)が好き。食べ慣れない人には葉を剥がしながら食べるのが少々難しかったりするのだけど、食べる機会あればぜひ試してみてほしい。
また沖縄独自の食べ物を紹介した本としてお薦めしたいのが『神々の食』池澤夏樹・著/垂見健吾・写真。「沖縄の食」に焦点をあてて著者が沖縄在住時に興味の赴くまま、実際に取材して記したエッセイをまとめたこの本。メジャーなものから変わりどころも押さえていて、沖縄の食文化を知るにはうってつけ。お恥ずかしながら小さい頃から身近にあった食べ物(飲み物)でもその由来や歴史、製造過程などこの本で初めて知ることも多かった。著者も言っているように「食」について考えていくと結果、その土地の「文化」に行き着く。美味しいものを食べてその土地の文化に触れる「食めぐりの旅」もぜひおすすめしたい。
沖縄に来て間もない頃、最初に刺激を受けたのが、平屋の古びたコンクリート住宅だった。この通称「外人住宅」と呼ばれる箱形のアメリカンハウスは、元々は駐留軍の軍人向けに建てられた住宅だが、1972年の沖縄の返還を機に、うちなーんちゅの家として利用されるようなった。一つの区域に50軒近く立ち並ぶ様は、異国情緒が漂い、本土では見られない光景だ。
基地周辺に点在し、中には築50年近く経つ古い物件もあるが、若い層を中心に未だに人気が高い。(人気物件なので家賃も高いが・・・) リビングとダイニングが一続きになっているタイプが多く、部屋数が多いのも特徴。元将校クラスの家になると5部屋、6部屋などの豪華な間取りもある。不動産会社にもよるが、大きく手を加えることができる物件も多く、アイデア次第で手軽にリフォームできることも魅力。
店舗として利用する人も多く、カフェ、雑貨店、パン屋などいろいろなお店が誕生している。浦添市港川の外人住宅エリアには、パン、タルト、カフェなど多彩なお店が集まり、観光客からも注目を集めている。
実際に住んでみると「夏は暑く、冬は寒い」など、マイナス面もあるようだが、低価格で庭付き一軒屋が手に入ることを考えれば、人気が高いこともうなずける。
確かに築年数は経っているが、時間の経過によって朽ちてきた壁色は味わいがあり、古物道具好きの自分の心を刺激する。
最近、沖縄出身の妻が育った外人住宅が空き屋となった。住居にするか、事務所にするか。はたまた、作家の個展を開くギャラリーにしてみてはどうか?など、勝手な妄想をふくらませて、しばらく楽しんでいる。
「プラザハウス」という名の、沖縄がまだアメリカ世だった1954年に創業した、日本最古のショッピングセンターに勤めている。場所は今も異国情緒漂うコザ、こと沖縄市。
浦添市に住む私の通勤路は国道58号線、沖縄県民のソウルロード。だと私は思っている。島の南北をほぼ一直線に縦断するかつて国道1号線と呼ばれた、人気のドライブコースでもある。
椰子の木、ハイビスカス、夾竹桃の街路樹の向こうからかすかに届く潮風。
晴れの日も雨の日も、毎日の通勤時間がこんなにも楽しいのは、沖縄に住んでいる恩恵だと思っている。
帰り道のドライブはより心地よい。月が美しい夜は格別である。満月だと気づいた夜は、帰宅方向を逆走して、北谷や恩納村のビーチに寄り道する。
地球上に等しく降り注ぐ月、愛でる人はきっと多く、しかし世界広しといえども、特に月を題材にした曲が多いといわれている沖縄。
その中でも私の宝物のようなアルバムがある。新良幸人(※注1)が2003年に発表した「月虹」(※注2)は、唄者と三線、時に太鼓というミニマムな構成にマイク7本を使い録音された作品。鮮明に耳に入る弦の打音、竿や三線の壁を伝う音色、唄者の呼吸、空気の振動から、月と人との親密で繊細な距離感が、生々しいほどに伝わってくる。月が照らす島の美しさ、その光に祈り捧げる人々の思い、月に託された“ソウル”が宿る唄。こみ上げてくる何かを共感させる激しさのあと、悩みや苦しみをどこかへ連れ去っていってくれるような音色は、波のように寄せては消えていく。
月の光と波音。きっと私だけではない、たくさんの人々が心のよりどころにしているだろうそのシンプルで偉大な存在感が、新良幸人さんを通してしんしんと胸にしみわたる。
故郷である沖縄のたくさんの魅力のなかでも、私の中では一番愛してやまない「沖縄の海と月」セット。その思いの奥にはいつも、新良幸人さんの「月虹」が流れている。仕事柄、たくさんの国々のいろんな良いものづくりと出会う中、沖縄にもこうして長きに渡って愛される景色があり、文化とともに受け継がれ、そして心こめてつくり改められる財産があることを、心から誇りに思っている。
「月虹」は、どこか遠くへ行く時、ホームシック対策として持ち歩く一枚でもあるし、海外からいらっしゃった大切なお客さまや友達に、必ずお土産としてプレゼントすることにしている。 たとえ歌詞は通じなくとも彼の唄の数々が、沖縄の海のように、月のように、みんなの心を満たすお守りとしてたくさんの人に寄り添ってくれることを信じて。
ウィキペディアで“南風”と検索すると、『南風(みなみかぜ・なんぷう・みなみ・はえ・まぜ・まじ) - 南方から来る風。漁師たちはこれが吹いた場合・・・』とあります。また沖縄では南の方位を“はえ”といい、主に西日本でも南寄りの風のことを“はえ”とも呼ぶそうです。沖縄を訪れて、僕に“そこが沖縄であること”をまず感じさせてくれるものは、空港の外に出た瞬間に触れる “風”です。まさに“南風(はえ)”なのでしょう。その風に吹かれた瞬間に、前身を包まれるようなリラックス感を感じます。毎度のことですが、何とも言えないあの空気感が溜まりません。良い意味で、体のネジが緩むような感覚でしょうか。
つい先日に沖縄ガイドブックの取材に立ち会うために、沖縄を訪れました。数日間の滞在でしたが、まず訪れたのが県中部の読谷村。それを目当てにこの日程となったのですが、その週末に読谷村の“やちむんの里”では“陶器市”と呼ばれるお祭りが開催されています。それぞれの窯場では年に数回の窯出しがあるのですが、この時期の年に一度だけは、どこの窯場も一般のお客優先で製品が販売されます(通常は業者優先で、その残りが現地販売さています)。
話は変わりますが、陶器市の前に地元で人気のパン屋「水円」を訪ねました。その眼前にそびえる大木が、強く印象に残りました。それは、しっかりと見上げないと一本の木だとは気付かないほど(一見、小さな森のような)のガジュマルでした。その根元には古い井戸の跡があり、ただならぬ気を発しているように感じました。沖縄初日にいきなりにパワーをもらい、その後の取材の旅の万事が約束されたかのような感じでした(実際に、そうでしたが)。そこは“ウェンダガリガー”と呼ばれ、周辺の住民がかつて利用した井泉(井戸)で、お正月の若水を汲む場所であったそうです。
第二次世界大戦後の民謡界からは故嘉手苅林昌さんや登川誠仁さんが。ベトナム戦争の頃には、オキナワンロックの紫やコンディショングリーンが、沖縄から全国へと活躍の場を広げていきました。そして70年代後半に喜納昌吉&チャンプルーズが『ハイサイおじさん』で衝撃的なデビューを飾り、90年代にはりんけんバンド、知名定男さんプロデュースのネーネーズがデビューし、最近ではオレンジレンジが全国的に活躍するなど、多くのミュージシャン達がここコザの街で生まれ育っていきました。
なかでも、紫やコンディショングリーンは衝撃的でした。1960年代のベトナム戦争の頃、コザにはAサインバーや米軍基地内のクラブで、戦争へ行く米兵を相手にパワフルなステージを毎晩繰り広げるロックミュージシャンたちがいました。そんな環境の中でコザの若者たちは、ミュージシャンとしての技を磨き、本場のロックスピリットを体感しながら育ち、オキナワンロックを誕生させました。「紫」や「コンディショングリーン」はそんな時代に登場した、オキナワンロックの頂点を極めた伝説のバンドです。You Tubeにもアップされているので、ぜひ聴いてみてください。
※ちなみに紫は、メンバーチェンジを繰り返しながらも、2010年に34年ぶりのアルバムを発表。平均年齢約60歳のバンドとは思えない迫力です。コンディショングリーンのかっちゃんも、ゲート通りの「ジャックナスティーズ」という自身が経営するライブハウスで長らく活動してましたが、体調不良でついに退いてしまいました。
沖縄の民家の細長い庭にピンと張られた光沢のある着尺。布の表面に浮び上った精緻な模様が、光のあたり具合で微妙に表情を変える。その横には、染め終わったばかりの絹糸が強い陽射しを浴びながら風になびいている。背景の抜けるような青空とのコントラストが美しい。民家の中からは機織りの心地よい音がリズムよく響いていた。
今、営んでいるOMAR BOOKSを始める数年前の学校図書館で働いていた頃、仕事から少し離れてみようとしばらくお世話になっていた首里織の工房での光景だ。沖縄で生まれ育ちながらも、沖縄の染織に関しては全くの無知。初めて目にする、まだ色を染める前の真っ白な絹糸、機(はた)、染料になる山原(やんばる)から採ってきたという木のチップ、目に触れるもの全てが新鮮だった。その道で生きる職人たちの姿を間近で見ることが出来たあの短い時間は、今では私にとって貴重な財産だ。
沖縄は焼き物やガラスの工芸品でよく知られているが、染織の産地としては前者と比べると残念ながらまだあまり知られていないように思う。色鮮やかな紅型以外にも芭蕉布、久米島紬、読谷花織、首里織、琉球絣など本島全域から離島に到るまでまだ上げきれないほどの種類が存在する。その土地独自の織物があり、かつてそれに魅せられた柳宗悦が収集した布を日本民藝館で見ることができるほど、沖縄の染織のその工芸品としての水準の高さにも驚く。
この『琉球布紀行』澤地久枝・著では一枚の布作りに関わる人たちの歴史や個人の人生、仕事にかける想い、出来上がるまでの気の遠くなるような苦労と哀しみ、それにも優る喜びが綴られている。著者自身が沖縄に長期滞在し、作家たちとの交流から手わざとは思えない美しい複雑な布がどのようにして彼らの手から生まれるのかを旅をしながらつぶさにとらえ、沖縄の染織の奥深い世界を見せてくれる。また写真家・垂水健吾さんによる貴重な染織の写真も豊富。この本を片手に、県内各地の染織に触れる工房巡りの旅なんてどうだろう。沖縄のまた違った魅力に出会えることができるはずだ。
沖縄へ行くたびに、毎回新しいつながりが増えていきます。こちらが沖縄への愛情を示すとそれの倍ぐらいにして返してくれる人たちとのつながり。これも私たちをオキナワンマニアにした大きな理由です。今ではやちむんやガラス、ファッションなどを買い付けていますが、最初はただの沖縄陶器好きな観光客です。もちろん自分たちで調べて作り手さんにも会いに行きましたが、今でも一番思い出深いのは大城拓也さんとYOKANGの二人との出会いです。
西表島のかなり著名な染織家の方に会いに行った帰りに「これからどこへ……?」と聞かれたので、緊張気味に「那覇へ行きます」と言うと、「南風原に手織りでデニムをやっている大城くんと言う若い子がいるのよ」。その言葉を頼りに南風原へ。大城工房を探して(カーナビはまだありませんでした)辿り着いたら大城拓也さんは、ご実家のショップにいていろいろな琉球絣の布を見せてくれました。
その次の沖縄訪問で拓也さんに琉球デニムを見せてもらい、「何か一緒に作ることができればいいね」などと話し、別れ際に「デニムに紅型染をしている友人がいるので、興味があれば行きませんか?」と誘ってもらい連れて行ってもらったのが、YOKANGの二人との出会いです。自宅マンションの一角に構えたオフィスの作業用の大きなテーブルに、乾燥前のTシャツが広げてあり、それがすごく魅力的だったのを覚えています。私たちはすぐにでもオーダーしたい気持ちに駆られましたが、スタートを切ったばかりの二人はまだブランド名も決めておらず、まずは名前を決めるところからお付き合いが始まりました。一方、大城拓也さんとは、その後琉球デニムでカバーオールとイージーパンツを一緒に作ることができました。今から14年ほど前のことになりますが、今でもあの時の西表島の空気、南風原の風、古波蔵の匂いは鮮明に記憶に残っています。
かつてはコザと呼ばれていた街・沖縄市に「コザゲート通り」という1本の道があります。「戦後、米軍基地の門前町として栄え、今も嘉手納空軍基地のゲートへと延びるゲート通りには英文字標記の看板が並び、行き交う外国人とともに独特の雰囲気を作りだしている」。ガイドブックにはそんなふうに紹介されていますが、ハイカラな感じはなく、どちらかといえば少し退廃的なにおいのする、でも、好きな人にはたまらない街です。
平日は人通りも少なく寂れた通りですが、週末の夜になると米軍基地から多くの米兵が繰り出し、街は文字通り豹変します。路上にあふれるロックの激しいサウンド、雄叫びをあげる若き兵士たちと群がる女たち。ライブハウスやバー、クラブなどはどこも人であふれ、そんな彼らに混じって朝まで飲み歩く。何軒目かの店を出たときには、もう夜も明け始め、つい先ほどまでの喧騒が幻のような気だるい静けさ。はげかけたコンクリートの看板文字、煙草の吸い殻や空き瓶が転がる通りを家路に向かうとき、「コザっていいなー」としみじみ感じてしまいます。
ひとつひとつ増えていく器たち。
沖縄に来て今年で6年目。
引っ越してきたばかりの頃は、一枚もなかった沖縄の器が、食器棚を占めている。
沖縄に来て何が一番大きく変わったのかと言えば、趣味。東京に住んでいた頃に好きだったバイクや自転車はあまり乗らなくなり、反対に加わったのが器集め。沖縄は手仕事の作家が多い島。紅型や染色、ガラス、木工、銀細工・・いろいろな作り手の人が素敵な作品を作っているが、特に焼き物は盛んだ。工房の数も数えられないほどで、沖縄各地に陶工の窯が点在する。特に窯が集中しているのが、那覇市壺屋と読谷村。
唐草や点打ちなどが大胆に描かれた厚手の成形の器は、沖縄そばやチャンプルー料理など、沖縄料理を盛る器として最適で、自宅はもちろん、食堂などでもよく見かける。壺屋の「やちむん通り」や、読谷村の「やちむん里」では、その沖縄らしさがあふれた「壺屋焼」など、古典柄の焼き物に出会うことができる。
個人的には、「壺屋焼」以前の、「湧田焼」など古陶にも興味がある。土の表情そのままを生かしたシンプルな作品が多く、職人の心意気が伝わってくるようで、その佇まいも美しい。この時代の作品を意識して、シンプルなデザインを追求する作り手も多い。
また最近は、作家の個性が全面に表れたアート志向の強い器も人気が高い。使うことで食卓に笑顔が生まれる表現豊かな器たち。作り方や素材にも工夫を凝らし、作り手独自の世界観が楽しめる。個展を中心に活動する作家も多く、毎年少しずつ変化を遂げていく作品を追いかけていくのも楽しみのひとつだ。絵柄であったり、形であったりと、表面的な沖縄らしさは表現されていないが、繊細さの中にも大胆な手法を取り入れた、その無限の想像力は、沖縄の雄大な自然の中で生まれたもの。
ちなみに家の食卓では、1点1点作家が異なる器を使っている。「この料理には、この作家の、この作品が合いそう」など、器のことで話が弾む。
沖縄には陶器を扱う店舗も多いが、ギャラリーがある工房もあるので、作り手との出会いを求めて、訪ねてみるのもおすすめ。沖縄各地で行われる陶器市にも足を運んでみて下さい。
1994年8月31日。初めて沖縄に行ったときのことは、今でもよく覚えている。那覇空港に着いたその足でCDショップへ直行し、その日に発売されたばかりの小沢健二の『LIFE』をサントラに、大学の友人たちと夏の終わりのビーチへと車を走らせた。生まれて初めて飲むオリオンビールや巨大なステーキに感動したり、好きな女の子の水着姿にドキドキしたり(笑)。沖縄の青い空と海を満喫した学生旅行だった。
自分の中で、沖縄のイメージが大きく変わったのは、今から6〜7年ほど前。雑誌『HUGE』の企画で、フェニカのバイヤーであるエリスさんと北村さんのバイイングに同行させてもらったのがきっかけだった。以前からフェニカや日本民藝館などで、沖縄の手仕事には触れてはいたものの、やはり聞くと見るとでは大違い。実際に作り手の方にお会いし、その暮らしに触れたことで、いつしか沖縄に対して憧憬に似た感情を抱くようになった。
11月。BEAMSの沖縄本の制作の下調べと現地スタッフとの打ち合わせを兼ねて、久しぶりに沖縄を訪れた。夜、栄町市場を訪れると偶然にもお祭りの最中で、沖縄を代表する歌手・古謝美佐子(※注1)さんのフリーライブが行われていた。アーケードに響く指笛、古謝さんと聴衆との掛け合いも楽しい。多くの人を笑顔にする歌声を聴いていて、今回の本のサウンドトラックは、島唄にしようかな、そんなことを思った。
そして、12月。現地取材もいよいよ本格化してきた。自分がエリスさんや北村さんを通して、沖縄の人々やさまざまな文化に出会うことができたように、青い海と空だけでない沖縄の魅力を、少しでも多くの人に伝えられる本にしたいなと、心から願う次第。小沢健二の曲名を借りるなら、『ぼくらが旅に出る理由』がやっぱり沖縄にはあるのです。
僕が最初に手にした“ヤチムン”は、唐草模様を浮き上がらせ、白泥を掛けただけの湯呑でした。沖縄では陶器のことを、“やきもの(焼物)”が訛って“ヤチムン”と呼びます。また泥で模様を浮き上がらせる手法を、“イッチン”と呼び、このような柄は“イッチン唐草”と呼ばれ、今では僕も普通にそのように呼んでいます。もちろん手に入れた当初は、そんなことを知る由もなく、何となく良いなと感じて購入しました。
“唐草”は大陸系(インド→中国)の柄であり、間違いなく大陸から沖縄(当時は琉球王朝)へと伝わったものでしょう。ヤチムンの特徴は何と言っても、その見た目。形状はもちろんのこと、絵付けや装飾方法などが特徴的で、誰が見ても沖縄と分かるような独自性があるところ。“チャンプルー文化”と言われる他の沖縄文化の例に漏れず、ヤチムンも様々な地域の特徴が良いとこ取りに混じり合っています。当時の沖縄は東アジアの重要な交易経由地点であったので、中国や朝鮮半島や南方(東南アジア)、そして日本、それぞれからの影響を受けて、独自の発展を遂げて今に至ります。また後日に例を挙げてお話したいなと考えているのですが、見事に他所の特徴を沖縄流にアレンジして、おおらかで力強い沖縄らしい焼物を生み出しています。
前置きが長くなってしまいましたが、今では沖縄やヤチムンにも多少詳しくなって、それなりにモノ選びもできるようになってきましたが、この湯呑を手にした時は、ほぼ無知に近い状態でした……。僕の沖縄への関心の入口は、ヤチムンであり、この湯呑であり、この湯呑を手に入れたBEAMSです。今ではフェニカ(※注1)の一員ですが、購入当時はフェニカの前身であるビームスモダンリビング渋谷店のスタッフで、軽いノリで買った記憶があります。だけど、今でも僕はこの湯呑を愛用しています。当時、初心者ながらに、いかにも沖縄的な派手な絵付けのものを選ばずに、一見地味なこちらを選んだ自分を「良いものを選んだね」と、褒めてあげたい気分です(笑)。そして、この湯呑のように静かでありながら力強さを感じさせるヤチムンを、とても沖縄的であると、今はハッキリと感じることができます。
これをきっかけに沖縄の陶器やガラスやカゴなどたくさん買い始め、何度も沖縄に足を運び、仕事でも沖縄の方々やものと絡むことも多くなっていきました。僕はそのようにして沖縄と出会いました。恐らく同じようにBEAMSをきっかけに沖縄に出会った方は、少なくないでしょう。これからもそんな出会いをBEAMSでしてもらえたら、幸せです。
1994年秋。訪れた駒場の日本民藝館で、「今日は館長がいらしてますよ」と、声をかけていただき、当時館長だった柳宗理先生に会いに館長室へお邪魔しました。少し前に先生のバタフライスツールをビームスで販売させていただいていたことで、何回か四谷の事務所ではお会いしていましたが、民藝館の館長室を訪れるのは初めてでした。
Photo by 山内ミキ
その時私たちを待っていてくれたのは、柳先生と北窯の大皿やワンブーでした。圧倒的な迫力、躍動感にあふれた“やちむん”だったのです。「沖縄には、まだたくさんこんなに素晴らしい焼き物を作っている人たちがいるんだよ。だから行かなくてはだめだよ。行って来なさい」と先生は言われました。
実際に沖縄を訪れることになったのは、2年後だったのですが、この時の柳先生の言葉をきっかけに私たちの収穫は始まりました。仕事や休暇で日本各地へ出かける時、その土地の民芸店で沖縄のやちむんを探すのです。使っていくうちに愛着がわき、さらに増す魅力。使っていない時は、棚やテーブルの上でも目を楽しませてくれます。沖縄のやちむんは、使うことの楽しさや一緒に暮らすことの豊かさを教えてくれたのです。
…続く