「さよならを言うたびに、私は少し死ぬの/さよならを言うたびに、どうしてこんなことをしなくてはいけないのかと思う/天国にいる神はそんな私を知っているはずなのに/私をどうでもいいと思っているのか、あなたを行かせてしまう」
逢瀬の後に必ず訪れる、別れの瞬間。その切なさを「小さな死」と呼ぶコール・ポーターの「さよならを言うたびに」の詞を読むと、彼は恋人たちの切ない瞬間を言葉にする術を知り尽くしていると思ってしまう。駅で彼女が小さく手を振る時、胸の痛みはピークを迎える。その後に待っているのは気だるくやるせない時間だ。そう、この曲の旋律のように。エクスタシーにも似た「小さな死」の後は、自分がタバコの煙にでもなったかのように頼りない気持ちになって、何もかもがブルーに染まる。二人が一緒にいることについて、コール・ポーターの曲は「これ以上のラブソングはない」と歌うが、その曲はさよならのたびに明るいメジャー調から悲しげなマイナー調へとコード・チェンジしてしまう。二人の気持ちは変わらず、恋のメロディは同じはずなのに。
定番のエラ・フィッツジェラルドから、最近ではレディー・ガガまで。実に多くの歌手がこのスタンダード・ナンバーを歌っている。それが誰のボーカルであっても、どんなアレンジであっても、街角やカフェでこの曲が流れると、恋人とデートして別れた後のあの妙にふわふわとした、地に足がついていない感覚を思い出す。それは待ち合わせ場所に急ぐ時のときめきよりも鮮烈で、儚い恋の記憶。そんなマイナー調の瞬間の方が、付き合っている誰かと一緒にいる時の明るい気持ちよりも、恋のシルエットとして残るのは何故だろう。
しかし、恋人と実際にさよならした後で「さよならを言うたびに」のような曲が聞きたいかというと話は別で、それがどんな美しい言葉であっても、他人の言葉なんかで今、感じている虚脱感を語って欲しくなんかないものだ。どんなラブソングも聞くになれず、カバンの中の本や手帳やスマホを取り出す気力もなく、電車の窓を見るとそこに映った自分の顔は歓びから来る胸苦しさから解放されて、どこかホッとして気が抜けている。その向こうに夜の街の風景が流れていく。その内に家に帰ったら寝る前にあれをしなきゃとか、明日の朝にあれを食べようとか考え始めて、マイナー調のメロディはどこかに消えて、自分の中に別の曲が聞こえてくる。それはもはやラブソングですらない。