小学校2年生の頃、総合の授業で大根を育てたことがある。ひとりひとつずつ、注ぎ口部分を切り取って名前を書いた空の牛乳パックに土を入れ、大根の種を蒔いた。
牛乳パックに収まるサイズということは、今考えれば普通の大根ではなく「ミニ大根」と呼ばれる小型種だったのだと思う。
毎日休み時間や放課後に各々水をやって学期の終わりに収穫する計画だった。ところが日が経つにつれ水やりをサボるクラスメイトが増え、私も「めんどくさいし、みんなやってないからいいか」と流されてサボりがちになった。
そうして日によって水をやったりやらなかったりしているうちに、いつのまにか収穫の時が来た。
自分の牛乳パックから葉を引っ張って出てきたのは、長さ10cmほどで少し細めの大根。周りを見回してみると、みんな水やりをサボったせいかミニ大根にしても小さな大根ばかりだったが、太さや形、色、泥の付き方などは個体差が大きかった。途端に自分の大根がなんだか地味で弱々しく思え、酷く劣っているような気がした。
クラスのみんなも同じだったようで、あちこちから不満の声が聞こえてきた。小さくてショボい、二股になってて変、ひげが長くて汚い。様々な理由で持ち主に嫌われた大根は、誰かが誰かに「交換しよう」と持ちかけたのを皮切りに、交換会が始まった。
私もすぐに太めの大根と交換することになった。持ち主には「デブっててキモいんだよね」と言われていたその大根は私には大きくて羨ましく思え、逆にその子は私の大根を「細くて良いじゃん」と気に入ったようだった。
しかし新しい大根もしばらくすると醜く見えてきて、私はまた他の大根と交換した。今度は先端が折れた大根で、ひょろりと伸びたひげ根がない清潔感が決め手だった。
終業のチャイムが鳴る頃にはもはやどれが誰の大根だったのかわからなくなっていた。
私は折れた大根を持ち帰ることになったが、加工されたような不自然さを感じ始め、交換したことを後悔していた。同時に自分の大根が控えめながらも凛とした佇まいだったように思えてきて、それがなんとなく自分には合っていたような気もしてきた。
そこでようやく私は、隣の芝生は青く見えていただけだったと気付いたのだ。
そしてその愚かさは、その頃いつも周りに合わせながら他人と比べている劣等感の塊だった自分にも重なって見えたのだった。
それから6年後の中2の頃、意見文の課題でこの話を書いた。この時の大根のように私たちは他人と比べすぎることによって個性を潰してしまっているのではないか、もっと自分らしさを大切にしよう、という主旨だったのだが、全く評価されなかった。インパクトを狙った「私は大根を育てたことがあります」という書き出しも、「唐突すぎる」という先生の意見によって「みなさんは、隣の芝生が青く見えた経験はありますか?」に変更させられた。
それでも小2の頃よりは自分らしくいられるようになっていた私は、自分の文章や考えに自信を持つことができていた。
そこからさらに10年。ようやく多様性や自分らしさを主張する声が目立つようになってきた今、自分らしさとは育てていくものであると考えている。
あの時の大根のように、人は見た目や能力などに様々な個性を持って生きているが、それらはコンプレックスにもなることも多い。自分の個性を受け入れ「自分らしさ」として捉えて愛したくても、1日や2日では難しい。
日々自分と向き合い、なるべく他人と比べず、個性を生かす方法を探したりしながら、少しずつ受け入れていく。そういった積み重ねの結果が、自分らしさになるのではないか。
時間はかかるかもしれないが、焦らずゆっくりでいい。今度は毎日サボらずに、自分らしさを育てていきたい。