目から入ってくる情報だけで、そのものが何であるか、あるいはどのような性質のものかをある程度正確に認識するためには、対象物をあらかじめ知っている必要がある。そして、人は自らの経験に則って不足している要素––––味、匂い、触感、温度、重さ、見えていない部分の形状など––––を特に意識することなく補完している。視覚を例にとったが、積み重なった経験や体験を基に対象を認識し、それでも不足している部分は知識や想像力で補うのは、ほかの感覚においても同様だ。では、逆に不足がない状態からあえて何かを欠落させた場合はどうか。
谷崎潤一郎の初期作品に「秘密」という短篇小説がある。「其の頃私の神経は、刃の擦り切れたやすりのように、鋭敏な角々がすっかり鈍って、餘程色彩の濃い、あくどい物に出逢わなければ、何の感興も湧かなかった」という男が、「普通の刺戟に馴れて了った神経を顫い戦かすような、何か不思議な、奇怪な事はないであろうか。現実をかけ離れた野蛮な荒唐な夢幻的な空気の中に、棲息することは出来ないであろうか」と、浅草松葉町の真言宗の寺に間借りをする。そこで探偵小説や異国の本を読んで空想の世界に遊び、夜になると変装をして巷に繰り出す日々を送る中、女装して出かけたある日にかつて関係を持った女と偶然再会した。翌日、男は女が手配した人力車に乗り、女の家に運ばれる。厳重に目隠しをされて。
目隠しをされ、視覚を遮断されることで、男の世界はいきおい色彩を帯びた。視覚という「足りない部分」が生じ、それに代わって想像力が発揮され、世界が一変したのである。こうした「足りない部分」が快楽に結びつくというモチーフは、たとえば同じ谷崎の「美食俱楽部」にも見られるものだ。飽食の限りを尽くしながら、さらなる美味しいもの、まだ見ぬ食べ物を求めてやまない“美食俱楽部”の面々。そのうちの一人、G伯爵はある晩、中華料理の匂いにつられて「浙江会館」という看板の下がった三階建の木造の西洋館にたどり着いた。浙江省出身者を中心とした大勢の中国人の食事会がこの館で催されていたのだが、食い意地の張ったG伯爵は中に入って料理を食したいと懇願する。どうにか入館が叶い、実際に料理を食べることは許されなかったものの、隠し部屋の覗き穴から会の様子と供される料理の委細を見学させてもらい、伯爵は何とその貪欲さからそれら料理の作り方を習得してしまうのだ。そののち伯爵はマスターした料理を美食俱楽部の会員に振舞い、賞賛されるのだが、料理が相当変わっている。いや変わっているどころか、一般的な料理の範疇をはるかに超越した「料理の極北」とでもいうべきものなのだ。
一例として挙げられている「火腿白菜」は、一般には金華火腿(金華ハム)と白菜を使った料理だが、ここではまず会員はまるで光がささない真っ暗な部屋で30分以上も立たされる。やがてどこから来たのか、女性の手がおもむろに顔を撫で、続いてその指が口腔に侵入してくる。女性の指は会員の唾液まみれになるのだが、そのうちなぜか火腿の味が口の中に広がり、あまつさえ女性の指がクタクタに煮込んだ白菜に変わるのだ。漆黒の闇が支配する部屋の中、すなわち視覚を遮られた状態で頼りになるのは口腔のみ。それゆえ会員は味覚と口中の感触に集中せざるを得ず、結果として味の感度が高まり、それが何たるかを知るのである。この火腿白菜はかように魔術めいた料理であるが、この「口腔を通じての認識」は、どこか幼児を思い起こさせはしまいか。何かを見聞きしてもそれが何であるかをまだ理解することのない幼児だが、乳飲み子の頃から口腔の感覚は鍛えられている。幼児が何でもかんでも口に入れようとするのは、その行為を通じて対象物を認識せんとするためであるように思う。幼児期の口はそのまま世界認識とつながっているのだ。その意味では、火腿白菜を「食べさせてもらっていた」美食俱楽部の面々は、その時、遥か幼児期までさかのぼる体験をしていたともいえそうである。
ところで、幼児期といえば私たちが肌ざわりの優れたものを好むのは、産着の記憶を探し求めているからではないだろうか。何も知らないがゆえに、何も補う必要がなく、すべてが新しかった無垢な時間。その時間を包み込む、取り戻したくても取り戻せない、永遠に欠落したあの甘美な感触を––––。