秋の幸せを数えあげようとするときりがないけれど、なによりの一番は、夜。時計の針のすすみはゆるやかに、まるで誰かに甘やかされでもしているように1秒1秒が目一杯引き伸ばされていく時間をなんと呼ぶだろう。読みさしの本、届いた本、書店のカバーがかかったままの買いたての本を抱えてソファに移動する。
さてどうしよう、最新刊を横目に『光の子ども』を1巻から読み返そうか、『トリニティ、トリニティ、トリニティ』で遠い時間を触わりにいこうか。国立新美術館で開催されている「話しているのは誰? 現代美術に潜む文学」の展示をみてからこのかた、小林エリカさんの著書をおさらいしたい欲が抑えきれない。抑える必要もなかろうと廊下の床に座りこみ、エリカさんの小説、エッセイ、漫画とアートブックも全部集めて靴の空き箱に入れてみる。入りきらないけどよしとする。
そういえば……この春夏のブックフェアで買い求めたアートブックたち……日々の忙しさにかまけて読めていないものがたくさんだ。リビングの端から3つの袋を引き寄せ中身をザザリと解き放つ。緑色の写真集、白い写真集(新しいカバーが届いたから二重にかけてみよう)、ブラウスの本、セリフのない漫画、小さな小さな函入りの豆本に、背を糸でかがられた手作りのzineに、造本を見比べているだけでもこんなにも楽しい。
ソファに腰かけ毛布にくるまり、記憶や時間が重なったり掘りおこされたりすることの不思議を思っているといくつもの秋が集まってきた。ソファの色、今ならベージュ、あるときは焦げ茶、キャメルのレザー、深い緑色に彩られる実家の風景。毛布は緑、緑、ペイズリーや花柄もあったっけ、くすんだペパーミントグリーンのあれはなんとも肌触わりが気持ちがよかったな。
秋と本とソファのはじまりは、覚えている限りでは4歳の風邪ひきの日。弱っている子どもに親は優しい。そこにつけこんで本をリクエストしてはソファで読みふけった。『かみさまへのてがみ』『かみさまへのてがみもっと』で夕焼け空の色がみえるようになった。知らない世界をめぐる『旅の絵本』は熱の力に後押しされて夢の中にまで入りこんだ。安野光雅の絵柄で展開する夢なんてお金を払ってでもみたいくらいなのに、大人になった今はもう叶わない。ひとりさみしい時間、『だるまちゃんとてんぐちゃん』の賑やかさに慰められた。『クリスマスプレゼントン』はまだしも、『セロひきのゴーシュ』に震えあがったのはどうしてだったか、もう思い出せない。『いやいやえん』も怖かったな。
忘れがたいいくつもいくつもの絵を眼裏に浮かべながら、グイーと上半身を伸ばして本棚から『Blue』と『PAINTINGS OF PAINTING』を手に取る。ひとつめは諏訪敦さん、ふたつめは武田鉄平さんの画集だ。一枚の絵に、一冊の本に塗りこめられた時間の厚みにダイブするように、みる、読む、撫でる、ページを往来する。指先に切れ目ができても気づかぬほどの吸引力がぶわんと音を立てて立ちのぼる。平面と立体の境界って本当にあるのかな。画集と絵本をまとめて収められる本棚が欲しい。
夜が更け、終わりに近づいていくこんな時間。朝の始まりとは少しだけ離れた、名前を知らない時間。落ち葉の色をした休止符が挟みこまれた幸福の時間。琥珀色のウイスキーか、滑らかに光る赤いワインか、ミルクを入れた深煎り珈琲か。なにかしらのおいしい薬を多めに注ぎまして、秋の色を身の回りに集めもし、うたた寝もし、そんな風にして夜の夜中を味わいつくすのです。