ジム・ジャームッシュ監督の映画『パターソン』(2016)には、パターソン(アダム・ドライバー)が就寝前に一人で一杯だけ飲みに行くバーが登場する。ご覧になった方も多いかと思うが、作品を簡単に記しておくと、ニュージャージー州パターソン市に住む、普段はバスの運転手を務め、空き時間に秘密のノートに詩を綴るパターソンの7日間の物語が『パターソン』。先に述べたバーは、歴史はありそうだがかしこまっていない雰囲気で、いかにも地元に根づいた店といった佇まいである。パターソン市ゆかりのアーティストの写真が壁にびっしりと貼られていることからも、オーナーの地元愛が感じられる(余談だが、ここで流れている音楽はすこぶるいい)。
以前、わたしはある雑誌に『パターソン』についてのエッセイを寄せたのだが、そこで着眼したのはこのバーの壁に貼られた写真群のほか、パターソンがノートに手書きで認める文字、詩のモチーフにもなっているブルーの箱入りのマッチ、パターソンの妻・ローラ(ゴルシフテ・ファラハニ)がハンドペイントで描くカーテンの柄やマーケット用に焼くたくさんのカップケーキといった「ぎっしり、びっしり」したものたちだった。これらの「ぎっしり、びっしり」したものたちは、いずれも比較的小さなもので、かつ一つ一つ微妙な差異、個性がある。先のバーの写真を例にとれば、集合体としてみれば単に「貼られている写真」ではあるが、それぞれに写っているアーティストが異なり、また写真のサイズも、撮られた時期も違うということである。
本作のプレス資料でジャームッシュは「身の回りにある物事や日常におけるディテールから出発し、それらに美しさと奥深さを見つけること。詩はそこから生まれる」と述べているが、前述の「ぎっしり、びっしり」はまさしくジャームッシュいうところの「身の回りにある物事や日常におけるディテール」を象徴する存在といっていいだろう。そういえば、バーのカウンター越しに置かれたたくさんのお酒のボトルも、種類や銘柄、ボトルの形状などがおのおの異なるわけであり、さらに踏み込めばボトルの中身の量も日々変わっているにちがいない。そうしたところから、誰が/どんな時に/どんな気持ちでそれを選んで飲んだのかに思いを馳せることで、書くと書かざるとにかかわらず詩は立ち上るのである。
バーと詩で思い出すのは、『ブローディガン 東京日記』の「公共の場所、カフェやバーなどで詩を書くこと」という一篇だ。『ブローディガン 東京日記』は、リチャード・ブローディガンが1976年に一ヶ月半日本に滞在した際、日記のように日々の気持ちや見たもの、聞いたことを記した詩をまとめた詩集だが、「公共の場所、カフェやバーなどで詩を書くこと」でブローディガンは、知らない人たちばかりの場所(=東京のカフェやバー)で一人「––––ぼくの舌は蜜の雲––––」と歌う、としたうえで「ときどき自分を気味がわるいなと思う」と結んでいる。この詩のタイトルをみれば、実際に声に出して歌っているわけではないことは想像がつくが、「天上の合唱隊の まん中にいるみたいに歌う」などというフレーズも含め、おかしみとそこはかとない孤独感がじわじわと沁み入ってくる素敵な詩だ。
孤独に慣れきってしまうのもよろしくないが、孤独を毛嫌いするのもいかがなものかと思う。一人になって「身の回りにある物事や日常におけるディテール」を見つめること、あるいは他人の中にあっても「個」すなわち自分自身を意識することで、違った景色が心中に広がるのではなかろうか。そんな時間を作るには、バーはうってつけの存在といえそうである。もしあなたが今夜一人バーで––––パターソンやブローディガンのように––––飲んでいて、心のうちに詩が降りてきたなら、酔いで忘れてしまう前にひっそりと何かに認めておこう。いうまでもないが、その場で音読したり歌ったりすると驚かれるのでご注意いただきたい。