a fashion odyssey | 鶴田啓の視点
センスの所在
"MR_BEAMS"とは、ファッションをきちんと理解しながらも、
自分の価値観で服を選べる
"スタイルをもった人"のこと。
と同時に、決して独りよがりではなく、
周りのみんなからも「ステキですね」と思われる、
そのスタイルに"ポジティブなマインドがこもった人"のこと。
今回立ち上げたオウンドメディア#MR_BEAMSには、
私たちビームスが考える理想の大人の男性像と、
そんな理想の彼が着ているであろうステキな服、
そしてMR_BEAMSになるために必要な
洋服にまつわるポジティブな情報がギュッと詰め込まれています。
本メディアを通じて、服の魅力に触れていただいた皆様に、
ステキで明るい未来が訪れますように……。
a fashion odyssey | 鶴田啓の視点
勝手にしやがれ。
このフレーズを聞いたとき、日本人はいったい何を思い浮かべるだろうか?
インターネットでワード検索すると真っ先に出てくるのが、ジュリーこと沢田研二の同名曲である。これは趣味や世代によって大きく違うのだろうが、ある人々にとってはゴダールの映画『勝手にしやがれ』(1959)が最上位結果となる。ちなみにセックス・ピストルズのアルバム『Never Mind the Bollocks, Here’s the Sex Pistols』(1977)の邦題は『勝手にしやがれ‼』と、半角の!(エクスクラメーションマーク)がふたつ付く。また、ニルヴァーナの2ndアルバム『NEVERMIND』(1991)は「勝手にしやがれ」と翻訳されることなく、現在もただ『ネヴァーマインド』と呼ばれている。
一方、映画の方の『勝手にしやがれ』は原題が『À bout de souffle』である。これは「息せき切って、息を切らせて」という意味のフランス語で、英題『breathless』は原題のフランス語をかなり素直に英訳している感じがする。となると、邦題の『勝手にしやがれ』は『À bout de souffle』からかなり飛躍した翻訳に聞こえるが…。これは映画の冒頭シーン(海が嫌いなら、山が嫌いなら…という、かの有名なアレ)からの引用で、カメラに向かってジャン=ポール・ベルモンドが吐き捨てる「Alles vous faire foutre(とっとと失せろ、の意)」というセリフの和訳が「勝手にしやがれ」であった為である。もしも映画のタイトルが「とっとと失せろ」であったならば、阿久悠氏はジュリーの新曲に果たしてこのタイトルを付けただろうか?つまり、この曲のタイトルは『À bout de souffle』に字幕をつけた山田宏一氏によって(結果的に)半分は決められたようなものなのだ。ともかく、日本人にとって「勝手にしやがれ」とは沢田研二であり、ヌーベル・ヴァーグであり、オリジナルパンクであるという事になる。
海外のものを輸入するときに、その副産物として生まれる「翻訳」
たとえば1960年代、VANによって日本に紹介された「アイビー」は本国アメリカのソレよりもずっとエクストリームな立ち振る舞いの「みゆき族」へと翻訳された。この文化の(言わば)和訳を担当したのが当時の「メンズクラブ」であり、石津謙介氏であろう。また、アメリカ国境を跨がずとも、アフロアメリカンのジャズプレイヤーによって自然発生的に翻訳されたアイビーは「ジャイビーアイビー(Jivey Ivy)」となり、品行方正な段返りの3つボタンジャケットは上3つを掛けるタイトな4つボタンスーツへと変化した。そして「フレンチアイビー」。1950年代から1960年代にかけて、アメリカにかぶれたのは日本だけではない。気位の高いパリジャンですらも、戦勝国アメリカから渡ってくるキラキラの文化に夢中になった。勿論、当のフランス人たちは自分たちの事を「アイビーっぽい」だなんてまったく思っていない。ただ、ボタンダウン・シャツを着て、ジーンズを穿き、スリップオン・シューズに足を滑り込ませただけなのだ。芸術の都で培った自分たちの色彩感覚を生かしたままで。それを傍から見ていた日本人が「アイビーっぽいアイテムを着てるのに、アメリカ人とも俺ら(日本人)ともなんか様子が違うぞ、フランス人は」と勝手に感じたのであろう。 ここからが面白いところなのだが、少し長くなりそうなので…。
一旦筆を置き、翻訳不能②へ続くことにする。
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センスの所在
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ロストバケーション②
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ロストバケーション①