a fashion odyssey | 鶴田啓の視点
センスの所在
"MR_BEAMS"とは、ファッションをきちんと理解しながらも、
自分の価値観で服を選べる
"スタイルをもった人"のこと。
と同時に、決して独りよがりではなく、
周りのみんなからも「ステキですね」と思われる、
そのスタイルに"ポジティブなマインドがこもった人"のこと。
今回立ち上げたオウンドメディア#MR_BEAMSには、
私たちビームスが考える理想の大人の男性像と、
そんな理想の彼が着ているであろうステキな服、
そしてMR_BEAMSになるために必要な
洋服にまつわるポジティブな情報がギュッと詰め込まれています。
本メディアを通じて、服の魅力に触れていただいた皆様に、
ステキで明るい未来が訪れますように……。
a fashion odyssey | 鶴田啓の視点
「キメ過ぎはダサい」というワードをたびたび耳にするようになってから果たしてどれくらい経つのだろうか?「キメる」の程度は人それぞれだろうが、同じ頃から「ヌケ感(=力が抜けた感じ)」という言葉もファッションにおいての頻出用語となった。
「ヌケ感」や「キメ過ぎはダサい」を語感通りに受け取るならば、一部のスキも無く完成された緊張感漂う着こなしよりも、どこかリラックスした、コンフォートな要素が差し込まれた動きのあるファッションが時代に合っている、ということだ。つまり「構築的なスリーピーススーツにダブルカフスのシャツ、ジャカードのシルクタイ、足元は磨き上げたセミブローグシューズとホーズ」ではないということ。勿論、このようなスタイルは永遠に美しいのだが、今の時代性を強く反映したものではない、という意味で。1970年代から続く英国のネクタイブランド<Drake’s(ドレイクス)>のビジュアルが「ラフなレイヤード、鮮やかな多色使い、パターン・オン・パターン、コンフォートなフィッティング、ニットを肩掛けする着崩し」といった若々しく現代的なプレッピーテイストに刷新されるほど、いま、時代は「ヌケ感」なのである。そして、本題はここから。
「ヌケ感」の普及と共に、英国やイタリアのクラシック業界を巻き込みながら復活を遂げた米国的プレッピースタイル。ここでは「ヌケ感」の前に、プレッピーについて一度考えてみたい。そもそもプレッピースタイルとは米国名門私立大学(アイビー)を目指すPreparatry Schools(予備校=プレップスクール)に通うお坊ちゃまたちが「いずれはキチンとしたアイビーになり、その後はエリートとして社会に出ていくのだから、その前のモラトリアム時代を謳歌するようなカラフルでプレイフルな着崩し」のこと。プレップ・スクールに通うのは裕福な家庭の子供たちだけで、アイビーリーガーの中にはプレップ出身でない学生もいる。一般的「アイビー」の実直な着こなしに比べ、お金持ち「プレッピー」のそれは裕福さゆえのヒネクレ感覚なのか、アイテムのチョイスやこなしの部分に「ヌケ感」が際立っており…。ともかく「アイビー」と「プレッピー」は“似て非なるもの”と言われてきた。
しかし。1960年代に日本へ紹介されたアイビーと、1980年代に注目されたプレッピーではそもそも時代が異なる。ということは、日本人が知る「アイビー」と「プレッピー」では、アイテムや着こなしが時代なりに違っていて当然なのである。市場で一般的に売られている洋服自体が20年分も違うのだから。それぞれの時代にアメリカの学生たちのリアルな生活スタイルをまとめた結果、20年という時間の流れが「ユニフォームカラー中心のアイビー」と「カラフルな着崩しプレッピー」の区別を作り上げてしまったのだろうか。つまり「アイビー入学前の着こなしがプレッピー」なのではなく「時代と共に洋服の着方が自由になるにつれて、1960年時点はアイビーだったものが1980年にはプレッピーへと変化していった」だけで、もっと言えば「1980年代版アイビースタイルがプレッピーである」とも言える。勿論、これはキャンパス内の話に留まらない。20年も時代が変わればビジネスマンやサーファーの身なりだって当然変わってくる。「人類は時代を重ねるたびに省略と着崩しを繰り返してきた」という不可逆の大きな流れは、(服飾史を細かく辿るまでもなく)19世紀のビクトリアンスタイルと100年後(1990年代)のサヴィルロウスタイルを比べ、どちらが「キメ過ぎ」で「ヌケ感」なのかを想像するだけで一目瞭然である。結局、人類の服飾は放っておいても、どっちみち抜けていくし、これまでも抜け続けてきたのだ。
繰り返しになるが、今は「ヌケ感」や「キメ過ぎNG」の時代である。これらに似た言葉「ノームコア」がファッションのトレンドワードとなったのは2013年頃だった。ちなみに「ノームコア」本来の精神とは「服装で他者との差別化を図る≒目立つ」という行為から距離を置くものであり、カッコつけすぎない中立的な身なりをすることによって、外見よりも内面で勝負するという思想。当時は、黒いタートルネックに色落ちしたブルージーンズ、NEW BALANCE 992という「ごく普通の身なり」に徹していたスティーブ・ジョブズが「ノームコア」の代表例に挙げられていた。勿論、語源は「Normal(普通)」+「Core(核)」なので、ジョブズのそれは「テキトーなカッコしてきましたー」という照れ隠し的な脱力ファッションを狙ったものではなく、内面や能力に人並外れた「Hardcore」を持つ人間のみに許される「うん、俺、見た目はフツーだけどねー。ところで、君は何が出来るの?」という自信の表れでもあったと思う。もはや彼の場合、朝の時間が無くて同じ服をついつい手に取ってしまうわけではなく、同じ見た目の服がズラリと揃ったクローゼットをゆったりと開けて(ある種、儀式的なムードで)毎日粛々とそれらに袖を通していたのではないだろうか。
「ノームコア」を殆ど聞かなくなり、近年では「エシカル」や「サスティナビリティ」という言葉を聞くようになった。更に、2020年のキーワードに「ニューノーマル」というものがある。新たな言葉の誕生である。勿論これは、コロナ禍で人々の価値観が劇的に変わったことにより生まれた言葉である。その解説はここでは省かせてもらうが、時代と共に新しい言葉が生まれていくことは今も昔も(この先も)変わらない。ファッションにおいては、「アイビー」であろうと「プレッピー」であろうと、時代とともに名前は変わる。変わらないのは着る本人の流儀であり、指針である。
時代の変遷や幾度とない流行のレイヤーを経て生まれた「(グローバリゼーションの果てにある)多様化」という言葉の裏を返せば「際限のない自由と、それゆえの不安」を感じ取る事もできよう。この先に待ち受ける「個人の時代」において、もはや人は何を着てもよくなった。抜けてもいいし、キメてもいい。自由。しかし、何を着てもよい代わりに「オッケー、ところで君は何が出来るの?」という問いにも即答しなければならないのだ。この自由な時代に於いて、僕ら洋服屋は過去に起こったファッションの言葉からイディオムだけを盗むのではなく、言葉のコア(核)にあるものをキャッチし、積み重ね続けていかなければならない。その意味で、ファッションがリバイバルするという現象自体は、過去に学ぶためのきっかけを作ってくれるし、新しい世代がそれらの精神を受け継いでいく、という意味で非常に頼もしい事でもあると思う。「ヌケ感」で抜けた穴には「ノームコア」のコア(核)を詰め込み、「ニューノーマル」に当てはまる温故知新を「プレッピー」から学ぶのだ。
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上の写真は2010年に発行されたJeffry BanksとDoria De La Chapelleによる洋書「PREPPY」。内容はプレッピーのルーツや変容について触れたものであるが、「Cultivating IVY Style」(cultivate:耕す、培う、育てる)というサブタイトルが、なかなか良い。スタイルは、やはり育てるものなのだ。口先の言葉ではなく、自らの手と心を自在に使って。
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センスの所在
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ロストバケーション②
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ロストバケーション①