a fashion odyssey | 鶴田啓の視点
センスの所在
"MR_BEAMS"とは、ファッションをきちんと理解しながらも、
自分の価値観で服を選べる
"スタイルをもった人"のこと。
と同時に、決して独りよがりではなく、
周りのみんなからも「ステキですね」と思われる、
そのスタイルに"ポジティブなマインドがこもった人"のこと。
今回立ち上げたオウンドメディア#MR_BEAMSには、
私たちビームスが考える理想の大人の男性像と、
そんな理想の彼が着ているであろうステキな服、
そしてMR_BEAMSになるために必要な
洋服にまつわるポジティブな情報がギュッと詰め込まれています。
本メディアを通じて、服の魅力に触れていただいた皆様に、
ステキで明るい未来が訪れますように……。
a fashion odyssey | 鶴田啓の視点
コロナ禍の今ではすっかり無くなってしまったが、ビームスには酒好きのスタッフが多く、昔から酒席の場が多かった。仕事が終わると毎晩のように飲みに行く習慣があったのだ。中には、その酒席で先輩から色んな話を聞きたいから、頑張って酒を飲んでいた人間だっているだろう。などと言うと、時代遅れでパワハラまがいの「飲みニケーション」という感じもするが…(まぁ、それも20年前の話)。ともかく、同僚同士で誘い合い、営業時間中は長々とできないようなスタイルの話、映画の話、音楽の話…つまりは「美意識」の話を延々と繰り広げていた。そして、最終的には「飲みの場で、お洒落について語ること自体が野暮である」という、見も蓋もない結論に至るのである。
「ブラックスーツに茶色のスエード靴を合わせるにはどうしたら良いですか?」「そんな質問をすること自体がダセーよ、お前」的な…。昔話とは言え、ご無体なものだ。
ところで、ビームスが売っている服は高い。モノのクオリティに対して、という意味ではなく、純粋に価格として高い。国産のビームスオリジナルドレスシャツが¥16,000-前後、同じくスーツは¥80,000-台後半。輸入品となるとシャツで¥50,000-、スーツで¥300,000-というプライスレンジまで。ファストファッションならば¥3,900-でシャツが買えるこのご時世、BEAMS FやInternational Gallery BEAMSで取り扱う服は世間一般で見ると、間違いなく高い。勿論、ビームスの値付けにはそれなりの理由があり、クオリティやクリエーションに対しては嘘のない値段が付いている。
「高価な服のコスパ」については捉え方も人それぞれだろうが、それ以上に問題になってくるのが「いつ、どこに着ていくか問題」。例えば¥200,000-のスーツを買ったとする。そのスーツを着て赤提灯の安居酒屋へ飲みに行くのはOKか?ひと昔前ならば圧倒的にNGである。高いスーツを着ている日の休憩中にコンビニ弁当の袋をぶら下げていたら先輩に怒られた、なんてスタッフも昔はいたものだ。現在以上に洋服屋がスタイルを売っていた時代である。「かっこいいスーツを着ているのならば、明治通りのオープンカフェテラスで英字新聞を読みながらコーヒーを飲む」ところまでが着こなしの一部であったのだ。いつどこでお客様に見られるか分からないのだから…ということもあるが、何よりも(「アットリーニにコンビニ弁当」など絶対に許せないほど)着ている本人たちの美意識が自発的に高かったと言える。全ての行為はかっこよく、洒落ていなければならない。少なくとも2~30年前まで、洋服屋のマインドはそうだった。
ここには日本と欧米のギャップがある。欧米だと当たり前のように収入と比例する「着るもの」「食べるもの」が、30年前の日本の洋服屋界隈では必ずしも相関しなかった。サヴィルロウやナポリ発の世界最高レベルのスーツに憧れた8~90年代のセレクトショップは、着るものだけでなく食べ物や飲み方にも欧米の理想を重ねた。給料一か月分のスーツを着ながら、武士は食わねど高楊枝。懐が寂しくなったとしてもコンビニのおにぎりを食べるくらいならカップ一杯のエスプレッソを選ぶような、言わば「やせ我慢」の精神性に重きを置いていた。80年代後半から90年代にかけて若き日を過ごした先輩は言う。「金は無かったけど、それでも先輩が食わせてくれたり、なんとかなったもんだよ」と。時代はバブル期。羽振りの良い大人たちを中心に世間の金回りはまだまだ良かったらしい。手銭は無くとも、高いスーツを着て、昼はナイフとフォークで飯を食い、夜はクラブへ繰り出す「着道楽生活」がファッションに華を添えていた時代だ。その後、バブルははじけ飛び、リーマンショックで世界が震え、リアリズムがやってきた。甘い幻想の崩壊と格差の到来。
明治維新や戦後の財閥解体で士農工商(身分制度)や圧倒的な資産が取り潰され、1970年代に「一億総中流」と言われた現代日本人は、そもそも階級意識が低い。江戸時代ならば「百姓が侍の着物を着ること」も「殿様が一汁一菜で済ませること」も無かったに違いないが、(少なくともこの50年間)日本人は階級に縛られず、そこそこフラットに生きてきた。労働者階級と中産階級ではパブの入り口や席が分かれているロンドン市民からすると、ガテン系の職人とスーツを着たビジネスマンが肩を並べて飲んでいる赤提灯のカウンターは不思議な光景に映るだろう。
日本(特に東京)の街並みには「混沌」がある。新しいものと古いもの。高級なものと下世話なもの。ピカピカとボロボロ。1300年の歴史ある神社仏閣の徒歩圏内に格安量販店のギラギラ光るネオンサイン。戦後の焼け野原から急激な経済成長を遂げた東京の風景はまるでハイコントラストなコラージュの様であり、High&Lowが一色淡になった(世界中でも他に類を見ない)ミクスチャー感覚の中で僕らは育ってきた。階級だけでなく、見た目もボーダレスな日本文化。
そして「いつ、どこで何を着るのか問題」である。着るものにT.P.Oがあるとして、キレイな場所には仕立てのしっかりとしたキレイな服をきちんと着ていけばよい。これは単純明快である。では逆に、場末の裏路地を歩くときには汚い格好をすればよいのか?しかし、混沌とした街を歩くと、「キレイ」のすぐ隣には「コギタナイ」が普通に落っこちている。着替えているヒマはない。服は好きだし、いいものを着たい。でも、立派な服に見合う洒落た店ばかりに足繁く通うこともできない。高いスーツを着て、赤提灯ののれんをくぐってもいいのか?
…というところで「いつどこでなにをきる②」へと続く。場末の飲食店にまったく用事が無い人には、徹底的に関係のない展開。しかも、果たして鶴田はどんな回答を用意しているのか。実は、書いている本人が一番不安だったりして。
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センスの所在
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ロストバケーション②
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ロストバケーション①