a fashion odyssey | 鶴田啓の視点
センスの所在
"MR_BEAMS"とは、ファッションをきちんと理解しながらも、
自分の価値観で服を選べる
"スタイルをもった人"のこと。
と同時に、決して独りよがりではなく、
周りのみんなからも「ステキですね」と思われる、
そのスタイルに"ポジティブなマインドがこもった人"のこと。
今回立ち上げたオウンドメディア#MR_BEAMSには、
私たちビームスが考える理想の大人の男性像と、
そんな理想の彼が着ているであろうステキな服、
そしてMR_BEAMSになるために必要な
洋服にまつわるポジティブな情報がギュッと詰め込まれています。
本メディアを通じて、服の魅力に触れていただいた皆様に、
ステキで明るい未来が訪れますように……。
a fashion odyssey | 鶴田啓の視点
先日、知人から紹介されたビスポークテーラーでスーツを誂(あつら)えるため、バスに乗ってぶらりと出かけた。「誂える」の意味を辞書で引くと「注文して作らせる」とある。出来合いのものを受け取る既製品と違って、自分の思い通りに注文して作ってもらうフルオーダーという行為はいかにも自由度が高く、服好きの愉しみとしては最上級の贅沢であるように思える。でも…思い通りに、って一体???
思い通り、とは(当たり前だけど)「自分が思う通りに」ということで、いわば「自分がどのように思うのか(2Bがいいのか?パッチポケットがいいのか?裏地はこれでいいのか?)」という点にかなりの比重がかかってくる。逆に言うと既製品は「他人が美しいと思う通りに作った物を自分なりに受け止める」ということなので、「既製品」と「注文服」とでは想定内と外に異なるゾーンの広がりがあるように思う。ここで注文服について誤解のないように言っておくと、思い通りに注文する(したいと願う)のはお客の方だが、その服を仕立てるのは職人なので、いかにビスポークと言えども「お客の思い通りに出来上がってくるとは限らない」のである。意思の疎通やコミュニケーションが出来栄えを大きく変える。そこにビスポークの真髄があり、結局のところすべての洋服には「あなた」と「わたし」という二者の関係性が要素として含まれることになる。例外があるとすれば「仕立て屋が自ら着るために作るとき」であり、しかもそれは自分の思い通りに指先を動かして具現化することが出来る熟練の職人に限ってのレアケースである。
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ここで、ある文章を紹介したい。以下は1989年に書かれた社内向けの資料から抜粋したものであり、弊社創世記メンバーの一人(現在は退社)がスタッフ向けにまとめた「サービスについて」の文章である。
「『格好良い販売員』は独りよがりではいけない。自他ともに『上手いコーディネートだ』と認められなければならない。そして、コーディネートが上手い限りは肉体的なマイナス面(足が短い、ウエストが太い、背が低い、首が太い、等)は、問題にはならない。むしろ、肉体的にコンプレックスのあるヒトほど、お洒落な場合が多く、それは『自己を知っている』から、それをカヴァーして有り余るセンスを生むのである。~(中略)~『自分を知り、自分に自信を持つ人』こそができる美しい身のこなし、余裕のある態度や会話のセンスこそは、BEAMSが望む最高の販売員の姿である」
30年以上前に書かれた文章であるが、今読んでも違和感を感じる点のないパーマネントな矜持である。さらに、ここで割愛した部分には「肉体的に優れているとされるプロのモデルよりも、一般的に肉体的コンプレックスを持つ人々の方が洋服を研究する分だけお洒落になれる」という文意の事も書かれている。1980年代に比べると(ファッションに限らず、アート、音楽、文章、建築などあらゆる表現を含む意味で)多様化が進んだ現代においては「美の基準」も一様ではないため、必ずしも「足が短い」がマイナス面だと今の僕は思わないが、この筆者の意図がそこにはない点もお含みおきいただきたい。つまり、要約すると「ステレオタイプな美の基準に惑わされず、自信を持って自分を受け入れている人間は美しい」という事である。
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少し話を戻そう。「既製服」と「注文服」。この二つに優劣はないと僕は思っている。人並外れた美意識や感受性を備えたデザイナーのフィルターを通して作られる「既製服」は、一般人の想定を大きく超えたゾーンにまで僕らの美の基準を押し広げてくれるし、実際に「自分の体にピッタリの注文服」よりも既製服の方が着る人の肉体を美しく魅力的に見せてくれる瞬間がいくらでもあることは、読者の皆様も経験としてお持ちだろう。
一方で「注文服」には、責任がつきまとう。ここで言う責任とは、まず「自分の思い通りに注文したという事実」である。生地、仕様、パーツを自分で選び注文した結果、その洋服がこの世に生まれたのだ。勿論、作るのは職人だしアドバイスをくれることもあるだろう。しかし最終的にゴーサインを出すのは自分自身である。もう一つは「自分の体型に合わせて作られた洋服であるという肉体的な事実」。既製品に比べ、注文服には自分の肉体的特徴が正直に表れる。僕自身も、英国ビスポークを通じて自分の体型を認識した経験がある。「自分はこんなにもいかり肩なのか…シェイプ位置が低いのは自分の腰位置が低いからか…」と。ビスポークを担当していた先輩スタッフの中には「せっかくGeorge Cleverleyで注文したのに、俺の足型は幅広で甲高だから、結果的にジャガイモみたいな靴が出来上がってきてさぁ…」と苦笑いを浮かべる者もいた。特に、初めての場合はゼロ地点から出来上がりを想像する分だけ難しい。二着目、三着目と繰り返し同じところで注文する度に、仕上がりと理想がリンクしてくるのは前例を教訓として活かすからであろう。また、仕立て屋や靴屋(つまり職人)との関係性が深まるにつれて「わたし」と「あなた」の距離も近づいていく。結局のところ、「自分が注文した洋服」や「自分の傍にいる人々」の存在は他ならぬ自分自身の写し鏡であり、それゆえに「自分を受け入れる」ことは「注文して出来上がった洋服を受け入れる」ということなのだ。
「ジャガイモの様な靴」を注文した先輩は、今頃どうしているだろう。八年前から常夏の国に住んでいるので、チゼルトゥの注文靴はもうすっかり履いていないに違いない。しかし、幅広の足でも平気なVANSのスニーカーを履いて自分らしく笑っているのだとしたら、彼の周りにはきっとたくさんの人が集まっているはずだ。まるで注文したかのように状況や環境などが希望にぴったり合っている様を言い表す「おあつらえ向き」という言葉。彼にとってシンガポールは「おあつらえ向き」の場所になったのかもしれない。「俺の足はこんな形じゃない!」と靴屋(他人)に食い下がることなく、自分の特性を受け入れて身を任せること。大げさに言うならば、それは彼が英国の注文服を通じて見つけた自分自身の道でもあったのだ。
先日僕がオーダーしたスーツは二度の仮縫いを経て約一年後に仕上がってくる。オーダーした時の自分を受け入れ、見つめ直し、着こなす。一年後の僕は果たしてどのような人間になっているだろうか。少なくとも、自分が誂えた洋服に支配されることのないような自分でありたい。
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センスの所在
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ロストバケーション②
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ロストバケーション①