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vol.04
04
山形と天童木工山形と天童木工

Yamagata and Tendomokko

写真:和田 裕也/編集・文:小澤 匡行

いまや多くの家庭で愛されている
天童木工は、
どこよりも早く
成形合板の可能性に目をつけ、
良質な家具の量産を可能にしました。
建築家やデザイナーとの数々の運命的な出会いは、
斬新なアイデアと、新しい技術の融合でした。
美しいフォルムを次々と生み出し、
木材の可能性を切り開いた歴史を辿り
魅力に迫ります。

山形と天童木工
part.

Part 1

成形合板との出会い

Part 1

成形合板との出会い

江戸時代にはじまった将棋の駒作りをはじめ、古くから木工業が盛んで知られる山形県天童市に、天童木工が創業したのは1940年のこと。もともとは地元の大工や建具などの業者が集まって結成された組合でしたが、軍が規格した木製弾薬箱の依頼に対して、高い品質が認められたことで仕事の量が増え、1942年に有限会社天童木工製作所を設立。戦争の末期には、アメリカ軍による上空からの偵察をごまかすために作られた木製の「おとり機戦闘機」を請け負っていました。このころ、仙台の工芸指導所で木製飛行機の研究をしていた剣持勇氏と出会います。

戦争が終結すると、貧しい日本が必要としていたのは戦うことより生きるためのもの。つまり軍用品ではなく生活用品でした。軍需の恩恵を受けていた天童木工は、そんな時代を読み取り、手持ちの材料を用いて民間向けの家具の生産へシフト。1947年には、成形合板に利用できるのでは、と当時にはとても珍して高額な高周波発振装置(交流電流で被加熱物を高速で発熱させることができる機械。これにより木を曲げる加工が可能に)を購入。この投機が先見の明となりました。日本に進駐していたアメリカ軍の住宅家具の製造の指導にあたっていた剣持勇氏の影響を受けたことで、天童木工もこの「進駐軍家具」を手がけるようになりました。軍用品の生産で培った戦前からの技術や、同じものを大量に作るという経験が、日本を代表するデザイナーとの出会いと結びつくことで、大きく飛躍していきました。

成形合板とは、単板とよばれる厚さ1mm程度しかない薄い材木に接着剤を塗布して重ね合わせ、圧力と熱によって理想の形を作る技術のこと。よく耳にするプライウッドとは、単板を重ねた合板のことを指します。それまでは、木を切る、削ることで生まれる直線的な家具が日本に限らず世界中の主流でした。しかし加工技術が発展し、軽さや使い心地のよさ、そして見た目の美しさを追求する時代の進歩が、成形合板をグローバルスタンダードへと導きました。1950年代になると、復興が需要を生み、注文家具の受注が急増。そして、1956年には、柳宗理がデザインした複雑な曲げ木のスツールをかたちにしました。パリのルーブル美術館やニューヨーク近代美術館(MoMA)のパーマネントコレクションにも展示されている、バタフライスツールの誕生です。

Part 2

天童木工のものづくり

どうして成形合板が主流になったのか、どうして天童木工が私たちの身近な存在になったのか、その二つには、ミッドセンチュリー期と重なる、戦後の時代背景が因果関係にありました。フェニカは、ものづくりの現場へ訪れ、企画部部長の奥山高由さんにお話をいただきました。

「天童木工が雑誌などで取り上げていただくようになったのは、90年代になってから。ミッドセンチュリー家具が若い世代に注目されたことで、弊社のバタフライスツールなどが人気を博すようになりました。しかしそれまでは、正直いってあまり売れていなかった、むしろ廃番すら考えてもいい時期があったくらいなんです。天童木工のターゲットは、あくまで官公庁やホテル、旅館などから業務用となるコントラクト家具のお仕事をいただくのがほとんど。個人のお客様向けのショールームも設けておらず、積極的な広報活動もしてこなったのが現実で、家庭用には目を向けていませんでした」

「しかし、美術館や図書館、体育館などに納品した天童木工の製品を、多くの方が意識せずとも目にして使っていただく中で、少しずつ認知を高めていきました。バタフライスツールもまた、美術館などで自然と置かれている姿を見た人が多かったのでしょう。また、個人的にも思い入れがあり、社員の多くが所有している、天童木工を代表する座イスも、盛岡グランドホテルのために製作したものが後にさまざまな宿泊施設に納入され製品化に至ったものです」

現在、天童木工は、過去に生まれた名品を集約させた「Tendo Classics」があります。それは1950年代〜70年代に活躍したデザイナーや建築家とのコラボレーションがほとんど。私たちにとって身近な天童木工のプロダクトは、このシリーズに選ばれているものばかりです。しかしなぜ、この年代なのでしょうか。

「成形合板の技術が普及したのは1950年代に入ってから。住宅が必要とされ、建築家やプロダクトデザイナーに注目が集まるようになった中で、デザインの力が咲いた時代だったのでしょう。そこに薄くて曲線が作れる成形合板の技術は、欠かせないものでした。また公共施設や宿泊施設がたくさん建設されるようになり、よりシンプルな客席や座椅子などを大量に求められるようになったのが大きい。その頃は、建築家が内装も担当するのが当たり前の時代でしたから、建物に合わせたコントラクト家具を考えていく中で、ミニマムでシャープな、過去にないデザインを成形合板が担っていきました」

「建築家との結びつきが強かったのは、剣持勇さんの影響が大きかったと思います。工芸指導所を退所されて自分の事務所を持ってからも、彼との関わりは続きましたから、きっと紹介なども多かったのでしょう。私たち自身は、営業こそは積極的に行っていましたが、ものづくりにおいては流行や時代感を意識することはありませんでした。むしろマーケティング的なものとは距離を置いているからこそ、古さを感じない、または古いけどいいと思わせるものが生まれたのだと思います。建築家やデザイナーさんの刺激的な受注に応えようと努力すれば、技術が磨かれる。そしてデザインの幅が広がる。その繰り返しでした。柳宗理さんのようなプロダクトデザイナーとの関係も、可能性が広がりました。バタフライスツールの複雑な曲げは、とくに困難を極めたそうです」

「付け加えるとコストパフォーマンスが高く、大量生産に適しています。木を削ると、布張りが必要だったり、メンテナンスも大変。それに比べると、成形合板はとても生産性が高い。弊社では、主にホワイトビーチを材料に使っていますが、これはブナの木の仲間で山形県は、森林面積が日本一で知られています。スギやヒノキのように建具には向いていません。また、真っ直ぐで頑丈な家具を作るのに柔らかいブナは向いていません。なにせ、漢字で書くとブナ(橅)は「木」に「無」ですから。材料としては不適合と言われているようなもの。しかし曲線を出すには、とても適した素材です。新しい資源を潤沢に使えたのも、大きなメリットです」

ミッドセンチュリーの影響を少なからず受けたであろう、才能豊かな建築家やプロダクトデザイナーたちのクリエイティブは、数々の大きな公共施設に発揮されました。それこそ静岡県体育館(1958年)や愛媛県民会館(1953年)、そして東京オリンピックの会場にも選ばれた国立代々木屋内総合競技場(1964年)は丹下健三氏によるもの。また、東京都美術館や関西国際空港をはじめ多くの企業、大学、銀行など納入先は数え切れません。そうした仕事に携わることで、天童木工の、成形合板の魅力がより多くの人々に知られるまたとない機会を繰り返し得てきました。そうした歴史的な建築との関わりから、天童木工の名品は生まれているのです。

Part 3

地元の老舗に愛される
天童木工

天童木工の代表的なプロダクトは、全国各地、そして海外のあらゆる大きな施設で見ることができますが、地元の天童でその魅力に実際にふれてみてはいかがでしょうか。ここでは、情緒にあふれた歴史ある宿や、江戸時代から素材と味にこだわり続けた蕎麦の名店を紹介します。

1.天童荘

明治初期に開業された料亭を前身とする天童荘は、すべての客室に庭を望む縁側があり、日本の和の美に触れることができる総平屋建て数寄屋造りの離れ「離塵境」と、伝統を残しながら現代のライフスタイルに合わせた「東亭」からなる全14部屋。館内に流れる、どこか研ぎ澄まされた空気には背筋が伸びる思いを抱きつつ、落ち着いたプレミアムな心地を誘います。

入り口で靴を脱いだら、すぐにスウェーデンの家具デザイナー、ブルーノ・マットソンのソファが出迎えてくれます(冬季のみ)。成形合板のフレームと布地のクッションによるシンプルな構造は、腰を深く沈められる、リラックスな座り心地。ありそうでない和とカーペットの組み合わせに、北欧ゆずりのデザインが美しく調和しています。

客室の趣はすべて異なり、そのいくつかに特別な天童木工の家具が置かれています。とくに「離塵境」の一番奥にある「さらわびの部屋」には、他では見ることのできない天童木工の安楽椅子が二つ並んでいました。美しい坪庭を眺めながらの内風呂と露天風呂を客室内で楽しんだあとは、希少な低座椅子でのんびりと過ごす、贅沢な時間を味わうのも一興です。

長い廊下に敷かれた絨毯は、帝国劇場や歌舞伎座、アメリカ大使館にも納入されている、同じく山形で創業したオリエンタルカーペットによるもの。そして白洲次郎の別荘で使われているものと同じ壁紙は、京都の唐長によるもの。館内のひとつひとつのディテールに、こだわりが見られます。

天童荘山形県天童市鎌田2-2-18
TEL 023-653-2033
www.tendoso.jp

2.滝の湯

1911年に創業され、天童温泉と同じ歴史を歩んでいる老舗〈ほほえみの宿 滝の湯〉は、本館と別館からなる大きなホテル。将棋の駒で有名な街ということもあり、竜王戦の舞台は同ホテルの特別室「竜王の間」で行われており、ファンのちょっとした聖地になっています。

1階のロビーには、2016年のリオ五輪のためにデザインされた大きな卓球台が飾られていました。この美しいカーブを描いた木製の脚は、天童木工による成形合板だったのです。東日本大震災の復興への思いを込め、被災地である宮古市のブナ材を使用しています。

別館の6〜7Fは「季のはな」と呼ばれる特別なフロア。伝統とモダンの双方を大切にした趣のある空間には、ねじれのフォルムが特徴的なマッシュルームスツールがそこかしこに置かれています。1960年に天童木工家具コンクールで入賞したデザインが、約40年の眠りから覚め、現代の技術をもって製品化された、同社を代表するスツールのひとつ。そして、和室には剣持勇氏が手がける座卓がどっしりと置かれています。高度な3次元プレスの技術が可能にした一体型のフォルムは、新しい和家具の見本です。

客室だけでなく、ロビーに並ぶ無数のイージーチェアも圧巻。そして大きな館内のあちこちで、丁寧にレイアウトされた新旧のイージーチェアを見ることができます。寛ぎの椅子に深く腰掛ければ、旅の疲れを癒してくれることでしょう。

滝の湯から数分歩いた先にある「ほほえみの空湯舟 つるや」は、滝の湯と兄弟関係にあたるリノベーションホテル。手入れが行き届いた日本庭園を囲むように廊下には、低座椅子やスポークチェア、バラフライスツールなど、天童木工のクラシックな名作が開放的にレイアウトされ、どこかモダンな印象を与えています。

ほほえみの宿 滝の湯山形県天童市鎌田本町1-1-30
TEL 023-654-2211
www.takinoyu.com
www.tsuruya-h.co.jp

3.水車生そば

創業は1861年、天童市内の中でも一二を争う老舗の水車生そば。雑穀の賃挽きと生そばの賃切りを業としながら、 11~3月の冬の間に出張出前蕎麦を始めたのが店のはじまりと伝えられています。地元と北海道の契約農家で栽培された玄そばを、昔ながらの水車を利用して石臼で製粉する、伝統的なスタイルを今もなお守り続けているのは、蕎麦本来の香りや喉越しを引き立たせるため。3階建ての広々とした店内は、その伝統を味わいたいと思う多くのお客様で賑わっています。

人気メニューは、江戸時代から受け継いだ蕎麦だけではありません。今から約35年前、まかない食だったラーメンが口コミで広がって商品化された「鳥中華」が、雑誌やメディアにひっぱりだこ。お取り寄せが全国から絶えない「裏メニュー」が、いまでは同店の看板です。シンプルな中にある独特の風味がくせになる、蕎麦だしを使ったラーメンのオリジナリティが、6代目の矢萩茂徳さんによって日本中に広まっています。

3階のお座敷部屋に並べられた座卓は、天童木工の技術者であった乾三郎によるミニマムデザイン。壁や畳を傷付けにくい、丸みを帯びた脚の設計が特徴で、見た目からは想像もつかない軽さが特徴です。

水車生そば山形県天童市鎌田本町1-3-26
TEL 023-653-2576
www.suisyasoba.com

Part 4

ゆかり文化幼稚園と
キッズチェア

今回フェニカが別注したのは、2002年に製品化に向けて開発が進められたキッズチェア。ホワイトビーチのナチュラルな素材と、3次曲面で作る成形合板、お互いの魅力が合わさって、やさしいユニークなフォルムを生み出しました。フェニカは、この木目を生かしながら、これまでになかった赤で特別にオーダー。住空間を選ばずに使える、ミッドセンチュリーの雰囲気も加わりました。

工場内で、キッズチェアの製作現場に立ち会うことができました。均一な品質で大量生産ができることが魅力の成形合板ではありますが、ひとつひとつの工程には、職人の目と手がきちんと行き届いています。

一枚一枚の単板に接着剤を塗布して重ね合わせてプレスすることとで、合板の基礎ができます。この際、木目を互い違いにすることで、しなやかな強度が生まれるとのこと。クッション材を使わずとも背もたれに心地よい弾力性があるのは、木のもつ力がそこに働いているからなのです。

成形後には、必要な形状にカット(加工)する作業に入ります。この時、治具とよばれる合板を固定するための補助器具が大量生産には不可欠です。合板一つ一つに位置を合わせて切削するよりも、複数枚の合板を固定させてから、誘導されるように治具に動かす方が、より短い時間で効率よく、カットすることができます。それは直線以外を引くための、職人の定規ともいえるでしょう。

曲線の部分をはじめとする微細なアウトラインの仕上げは、手作業によって滑らかに整えます。天童木工は、こうした工程の一つ一つに、年齢差やキャリアの異なる職人たちを配置しています。同じ空間で作業することで、言葉を交わさずとも、技術と勘と感性が、若い世代へと脈々と引き継がれていくのです。

キッズチェアは、もともとは東京の成城にある「ゆかり文化幼稚園」に納品するために、特注でデザインされたものがルーツと言われています。今から50年以上も昔のことです。ゆかり文化幼稚園は1947年に作曲家の弘田龍太郎氏、日本画家の藤田復生、妙子夫妻によって設立されました。1967年に丹下健三設計による新しい園舎が建てられ、キッズチェアは、そのときに作られたもの。その後、この幼稚園に限らず、いろいろな施設に納品される中で、2002年に一般家庭用に販売されました。

閑静な住宅街に囲まれた敷地内に建てられた園舎は、他ではなかなか見られない地下1階、地上4階からなる5階建てですが、斜面を生かして沿うように作られているので高さを感じさせません。また、白を貴重とした外観は、子どもたちの個性という色に園が彩られることを理想としているため。複雑でまるで迷路のような設計も、子どもにとっては楽しいお城です。そして月光荘の木炭や絵の具の筆を使ったり、問屋から良質のおえかきの紙を取り寄せるなど、一つ一つの道具にもこだわっています。そんな各教室に、キッズチェアが50年も使われています。芸術の中で育まれる感性を大切にする、園の教育理念が息づいています。

60年代から使い続けているもの、追加でオーダーしたもの。様々な年代のキッズチェアが同じ空間に並べられ、積み上がっています。それ故、ホワイトビーチの色合いが異なるのが、空間に表情と奥行きを与えています。成形合板ならではの軽さと継ぎ目のない曲線的なかたちは、子供たち自身が安心して持ち上げたり、運ぶことができます。ちなみにスタッキングは6脚まで、というきまりを園では設けているそう。

ゆかり文化幼稚園にとって、キッズチェアはもちろん座るためのものですが、ときには園児が床に座り、おやつを食べるためのテーブルとして使うこともあります。天童木工の豊富な名作の中から、フェニカがどうしてこのキッズチェアを選んだか。その理由も答えは、ゆかり文化幼稚園の日常の中にもありました。子どものための椅子だけではなく、それぞれの環境でそれぞれの発想を楽しむ。ミニマムでコンパクト、そして完成されたプロダクトだからこそ用途は広がります。そう考えるとこの赤いチェアも、椅子以外の何かにも見えてきませんか。

写真:和田 裕也/編集・文:小澤 匡行

SPECIAL ITEM INFORMATION

天童木工 × フェニカ

取り扱い店舗:
「インターナショナルギャラリー ビームス」2階
「ビームス ジャパン」5階 フェニカ スタジオ
「ビームス 神戸」地下1階
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フェニカの視点で読み解く。

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