1.岩茶房丹波ことり(丹波篠山)
Masaaki Shibata
and three apprentices
写真 : 湯浅亨/編集 ・ 文 : 小澤匡行、岡島みのり [MANUSKRIPT]
中世から歴史が続く
日本六古窯の一つ、
兵庫県の丹波焼は
京都と大阪に近い山間でゆっくりと、
自然を感じ、生活に根ざした器作りを主に、
時代に合うかたちを育んできました。
その奥深さに魅了された柴田雅章さんは、
美しい生活を大切に
丹波焼に基づいたスリップウェアの第一人者として
作陶を続けています。
そして教えを受けた
三人の弟子たちの目指すかたちはそれぞれ。
しかし丹波焼と、柴田さんのこころを
受け継いでいます。
Part 1
柴田雅章さんに聞く丹波焼のこと、
スリップウェアのこと、伝えたいこと。
柴田 雅章
柴田雅章さんは1948年、東京生まれの小田原育ち。大学在学中に民藝について知るうちに、丹波焼の魅力に惹き込まれ、卒業後に移り住みます。生田和孝さんから4年間の薫陶を受け、1975年に独立。登り窯を築きました。その数年後、憧れ続けた英国の古陶スリップウェアを手にしました。日本から遠く離れた西洋のものづくり。技法もわからぬまま試行錯誤を繰り返すことで手繰り寄せた美しさの秘密は、表面的な装飾ではなく、暮らしと仕事が一体になることで生まれる創作表現でした。日常のための実用的な器に必要な「眼と手」を、柴田さんは生活をともにした3名の弟子に伝えました。世の中にあまり多くは語られていない丹波焼について、魅せられたスリップウェアについて、そして自身の信念について、柴田さんに話をききます。
時代や賢人の暮らしに合わせながら
実用的な器を作り続けていまがある。
―丹波焼の起こりについて、簡単に教えてください。
僕は研究者ではないので、学者に言わせると違うこともあるかと思いますが、丹波焼の歴史は平安時代の末期からと言われています。朝鮮半島から須恵器が、中国から三彩が伝わりましたが、日本独自で生まれたと言える焼き物は中世がはじまり。瀬戸は独自の発展をしますが、常滑や越前、信楽や丹波が続いたと言われています。僕が独立してから3年後に、兵庫県がはじめて大規模な丹波焼の調査を行いました。発掘された多くの焼き物の紋様から、それまで鎌倉時代から始まったと思われていた丹波焼が、平安時代の末期だということがわかったのです。
―丹波焼の大きな特徴とは?
常滑から伝わった、山の斜面に穴を掘って作られた「穴窯」で焼いていました。湿度も合って燃焼効率がよくないため、長い時間をかけないと温度が上がらない窯でした。焼き物の表面に付着した灰がどんどん積もり、温度が上がった時にそれが溶けて、器の肌に釉薬としてくっつくのです。これを自然釉といいます。桃山時代の末期になると朝鮮半島から伝わった登り窯を用いるようになり、ろくろや釉薬も同時に取り入れられ、丹波焼は大きく変わりました。千利休以降の茶人たちがあまり丹波焼に注目しなかったことも幸いし、茶器が作られることは少なく、壺や瓶、すり鉢といった生活の道具を作り続けていました。江戸時代の後期になると、それまで主流だった飴釉(あめ・ゆう)や黒いものから、白化粧のものが出てきます。これを白丹波といいますが、僕はこれがとても好きで、柳宗悦先生の言葉を借りれば「白丹波は中国の宗の白に匹敵する」と言われています。いい具合に焼きが甘い感じで、少し黄色がかっていたり、緑がかっているものもあります。長い歴史の中で意匠が変わり、それぞれの時代に必要なものを作ってきた歴史は、これが丹波焼であるとひとつには括れない、多様な焼き物を生み出してきました。
―柴田さんと丹波焼の出会いはいつですか?
20歳の頃に柳宗悦の本を読んだり、実際に丹波を見る機会がありました。その頃は関東だと益子が有名ですが、自分はもっとひなびた場所で焼き物をやりたい思いがありました。大学の卒業論文(古丹波の化学的研究)は、化学的なアプローチによる古丹波焼をテーマにしました。大阪の万国博覧会が開催された年のことです。丹波古陶館の館長だった中西さんに、研究するための古い破片を提供してくれないかお願いしました。昔、古陶館の裏にあった倉庫の跡地を掘り返して出てきた陶片を時代別に分類してもらい、いくつか東京に持って帰って分析をしました。たった1年間の研究では大まかな結果しか出ず、その時は古い時代は温度が低い分、焼いている時間は長く、新しい時代になると温度は高い分、焼いている時間は短いというような傾向があることくらいしかわかりませんでしたが。
古い時代の焼き物を見ていると、やはり化学には限界があって、自然から生まれたような美しさを感じます。明治になって化学的なものがいろいろ入ってきたことで、焼き物の美しさが次第に失われたように思います。人間がどれだけ知力を尽くしても、手に入れた自然の材料をどう使っていくかしかないのではないでしょうか。どんな灰に、どんな土を混ぜて作るか。私の所では2、3種類の自然原料を混ぜる割合を突き詰めることで自分の釉薬を作っています。
憧れ続けたスリップウェアを手にして
誰も知らなかった技法を解き明かした
―スリップウェアとの出会いは?
最初に知ったのは、学生時代に読んだ雑誌「工藝」でした。日本のものとは全く違う、自由な感じを覚えました。その後に民藝館で実物を見たらその色、線、かたち、存在感に圧倒されてね。すごく惚れてしまったのです。でも、僕は丹波を選んだし、スリップウェアはあくまで西洋のものという憧れでしかありませんでした。僕の3歳年上に、東京の目白で古道具店を営む坂田さんという方がいて、イギリスに度々行ってヨーロッパのものを売られていたんです。昭和53年に坂田さんのお店でスリップウェアが売りに出ることを聞きつけ、急いで上京し、飛んで尋ねました。売られていたのは4点あって、そのうちの四角い皿がどうしても欲しくて。無理して手に入れ、3年がかりでお金を支払いましたよ。
―それをきっかけにご自身で作ろうと思ったのですね。
無理して買ったものだから、毎日よく見るんです。焼き物は、形を作ってから模様を描くのが普通でしょう。でも、そういう固定観念に縛られた作り方では、どうしても同じように作れない。ある時、平らな土の板にした素地に化粧土で文様を施し、その面を型を当て裏側から成形すると、思った通りにできることがわかったんです。私の大先輩である武内晴二郎さんは、戦争で片腕を失ってしまうのですが、焼き物を始められて、スリップウェアを作っていました。武内さんは布の上に土の板を置き、文様を描いてから柔らかい状態のうちに凹ませた濡れた砂の上に置いておくと、柔らかさと重みで沈んで器の形にしていったと聞きました。しかしそれでは土に圧力がかからず、形が不安定で、量産ができないのではないかと思います。
それと、イギリスの古いものをよく見ると、スリップの内面は凹凸がなく、平らであることに気づきました。ということはやはり抑えつける力が働いているのだと。イギリスにもスリップウェアがどう作られたのか、はっきりとした記録はないのですが、残されたものを見ると多分私のやり方で合っているのではないかと思います。
―柴田さんが協力して2003年に開催された「英国の古陶・スリップウェアの美 展」は有名です。
坂田さんに聞いたところ、おそらく300点くらいは入っていると言われた英国のスリップウェアをみんなで手分けして150ほど集めて、大阪と東京と豊田の民藝館で展示したんです。その折、世界でも初めて英国のスリップウェアの図録を制作し、歴史や制作過程を納めたビデオも作成し、販売もしました。それを見た若い作り手たちが、一斉に作り始め、国内にも広がりました。今ではあちこちで見かけるスリップウェアですが、その歴史は短く、まだ15年ほどしかないのです。
―編み出した技法を広く公開することに迷いはありませんでしたか?
友人たちから「それは公開しない方がよいのではないか」と言われましたが、多くの人にスリップウェアを知ってもらいたかったし、将来さらにいいものが生まれてきて欲しいという期待を込めて作りました。多くの人が作り始めましたが技法がわかっても良いものが生まれるわけではないので、僕の知る限り、スリップウェアという名前ばかりが先行していて、深みのある良いものが生まれてきているように思えません。
―スリップウェアをアートとしての発展を望んだのでしょうか?それとも生活に根付いた器として普及させたかったのでしょうか?
後者です。スリップウェアの魅力とは線に限定されるものではなく、ものの存在感というか、全体の美しさです。技法だけでは表現できるものではありません。日本の茶道がどうして発展したのか。日本は暮らしやすい国のように思われますが、台風や地震はしょっちゅう起きていて、火山がたくさんあり、雨は多く、木が生い茂り、山に囲まれ、四季がはっきりしている。そういった自然の変化の中で生きるうちに備わってきた美しいと思う感覚が、お茶という世界が生まれる背景にあると思います。頭で組み立てるのではなく、いろんな要素を取り去り、自分の奥にある感覚で見ることを直観といいます。つまり生命がもつ根本的なものを頼りにする民藝と直観は、深い部分で繋がっていると思います。
美しい日常の器を作るために必要なことは
技術よりも美しい暮らし
―これまで三人の弟子を育ててきましたが、どんなご指導を?
技術は勝手に覚えなさい、と焼き物の指導はほとんどしていませんでした。自分で勉強すればろくろは経験で上手くなります。僕が伝えたかったのは、土を感じるとか、季節に触れることです。この花が咲いたからいいねとか、庭に生えた草を抜いてみて、雑草と植えた花が一緒にあることの意味はなんなのかとか。全てきれいに抜いてしまうのが草むしりでないことに気づくまで2、3年はかかるんです。そういった感覚を20歳過ぎてから身につけるのは大変なことだから、ここで身につけて欲しい。どんなものを食べるのか、どれくらいお茶は飲むのか。
―焼き物に限らず、どんな世界にも共通するお話です。
焼き物が芸術やアートに置かれてしまうと、何か抜け落ちてしまう部分があります。人が本質的に求めているのは、それぞれが幸せに暮らせるかどうか。生活に身近な器には、その責任があると思います。そのためにはさっきお話ししたように、身の回りの小さなことに変化を感じ取れる感覚をもてることが大切です。人はそれぞれだから、美しいと感じるものも当然人と違ってしかるべき。しかし直観は、経験によって養われるものでもあります。そのためには色々なものをたくさん見て、いつも胸をときめかせないといけない。幸せとは何か、美しさということから、その問いに近づくこともできるのです。
Part 2
意思を受け継ぐ3人の弟子の眼と手
柴田雅章さんは、これまで3人の弟子を輩出しました。
七尾佳洋さん、栗田荘平さん、大塚誠一さん、
彼らはそれぞれの場所に窯を構え、道を切り拓いています。
ご自身が大切にしていることや、柴田さんから受け継いでいること、
そして今だからこそ思う、丹波の意味などを尋ねました。
七尾 佳洋
七尾佳洋さんは、柴田さんにとって初めての弟子でした。函館に生まれ、沖縄の大学で学び、そして丹波で修行。独立してからは北海道に戻り、檜山郡厚沢部町で工房を構えていましたが、2015年より滋賀県の長浜市へ拠点を移しました。明治14年に建てられた古い蔵が、七尾さんの作陶場。様々な土地で受けた影響が、作品から感じることができます。
―柴田さんとの出会いを教えてください。
僕は沖縄県立芸大の第二期生として入学したのですが、卒業後の進路を教授だった瀧田項一さんに相談したところ、師匠を紹介頂きました。陶芸への道を決めたのは、3年生くらいから。柳宗悦さんの工藝の道などを読み始めて、民藝に感化されていきました。当時の先生方も民藝色がとても濃かった影響も大きかったと思います。もちろん良し悪しがわかるようになったのは、修行してからですが。家から歩いて5分くらいに家を借りて頂き、そこに住まわせていただきました。君も25歳だし、なるべく早く独立した方がいいから、3年で出なさい、という約束でした。その頃の師匠はたしかまだ、44歳でしょうか、今の僕よりもずっと年下でしたが、黄金時代じゃないかな。すごい勢いを感じました。
―柴田さんの第一印象はどんなでしたか?
とにかく真面目な先生タイプでした。暮らしが仕事、とはよく言いますが、まさに生活がとてもきちんとされていました。当時は家庭菜園や畑もやられていたので、その管理などもしていました。仕事は朝8時から夕方5時まで。12時から1時までのお昼休憩は、師匠と一緒に食べていました。子ども達の子守もよくしていましたよ。篠山城のお堀に釣りへ行ったり、栗拾いをしたり、冬は師匠の家の裏にある小さなお宮さんに登ってソリ滑りをしたりね。終わってからは家の裏にあった野菜小屋にろくろを持ち込み、練習していました。裸電球ひとつしかない、冬はとても寒いところでした。
―自分の中で大切にしている教えは?
挨拶とか、基本的なことを厳しく教えられました。陶芸家になる前にまず人としてちゃんとしなさいと。その指導がなければ、今はなかったと思います。あとは美しい形かな。師匠は大阪日本民藝館の展示を担当されていたので、その手伝いで良いものを触ることができたり、並べることができたことは、とても良い経験になりました。ああいうものを見て、ある日パッと気づいたんです。好き嫌いは人の価値観などで変わりますが、良し悪しは理屈ではありません。でもそれがわからないと仕事に表れてしまうし、自分の作ったものを客観的に見ることができない。この線引きというか、見極める力を養えたことは、一番の財産かもしれません。師弟制度もなくなりつつあるいま、これは学校でも教わることができないことと思います。
師匠がスリップウェアをやる姿を、僕は一度も見たことはありませんでした。集中するために夜に一人でやられていたので、翌朝に仕事に来るとできているんです。初めて見たのは、展覧会で販売されたビデオテープです。あぁ、こうやるんだってその時知りました。
―ご自身の作品の特徴を教えてください。
楕円のお皿は好きですね。ろくろを使わない型物のお皿は、石膏型に被せるだけで簡単に思われがちですが、すごく難しい。型を取ってもその裏側を削ったり、形を整えたり、すごく手間のかかる作業なんです。形をみるいい勉強になるから、と徹底的にやらされました。その時は嫌で仕方なかったのですが、今になってみると自分には合っていたと思います。あと、芸大時代に受けた瀧田先生の練り込みの授業が好きで、それは独立したらやりたいと、おぼろげな構想はありました。練り込みは仕込みに時間がかかるので、1〜2ヶ月は土同士をくっくけるために寝かさなければならない。とても手間がかかるんです。でも、その間がなんかいいなって。
スリップウェアは独立してすぐは試しにやってみたけど、すぐに師匠に言われました。「自分の仕事を見つけなさい」って。だから作品を受け継ぐ、という気持ちはなかったですね。ただ、僕の練り込みも「スリップなんですか?」と聞かれるけど、それは僕が沖縄にいて、丹波で師匠の仕事も見て、そういういろんな影響があるのかもしれません。あと、師匠から受け継いでいるのが白釉や飴釉などの釉薬かな。線は沖縄の製法を用いて、自分で調合しています。不思議なことに、沖縄のコバルトは沖縄の光があたるときれいなんですけどね。
栗田 荘平
栗田さんは1972年生まれ。1991年に渡米し、カリフォルニア州立大学で陶芸を学びました。卒業後に帰国してすぐ柴田さんに師事し、独立後は同じ丹波篠山を拠点にして作陶を続けています。2012年には登り窯を築窯。柴田さんにとって2番目の弟子となる栗田荘平さんですが、もっとも丹波であることの意味を考えながら、自身の道を究めています。
―柴田さんとの出会いを教えてください。
父が丹波の出身なんです。親戚がおったもんですから、浪人していた時に先生を訪ねました。先生は、師匠だけではなく、小田原にある「はじめ塾」という寄宿生活塾の大先輩でもいらっしゃいます。そのはじめ塾の先生が「君の父が丹波の出身なら、柴田雅章という人に一度会ってきたらいい」とご提案されて、アメリカに留学する前に一度伺ったんです。先生の美しい生活と暖かい家族が、とにかくいいなぁと感じました。しかしその時は、自分がまだ焼き物をやるとは思ってもいませんでした。
―弟子入りを志したきっかけは?
留学中の夏休みに「先生、アメリカの夏休みは長いので、少し経験させてもらえませんか」と電話をしたんです。「じゃあ来てみなさい」と。窯出しから窯焼きまでの1サイクルを見せていただきました。学生だった私には優しいのですが、その時に弟子入りされていた七尾さんには本当に厳しくて。これは無理だぞ、と思ったのですが、やはり自分で作ったものを使って生活をなさっている。これは素晴らしいことだと思って、卒業後に門を叩きました。正直なところ、先生の焼き物に憧れていたのではなく、先生の生活に憧れていたのです。期間は1997年から2002年まで。独立するために土地を探したりする期間を1年くらいいただいていたので、実際は4年半ほど、先生の元で生活させて頂きました。
―柴田さんは栗田さんから見てどんな人でしたか?
ユーモアのセンスがある、大きな方です。弟子入りしている時は常に1対1だったので、どうしてもお互いに煮詰まるときもあるんです。そういった時にパッと何気なくおっしゃる冗談に救われたことが何度もありました。そして、先生はとても骨太なものを作られます。多くの人にとってはスリップウェアのイメージがありますが、私はそれと同じくらい、先生の作られる無地ものや、黒い釉薬のものが好きです。
―番心に残っている教えはなんですか?
「ものの良し悪しは形ですべて決まる」。それを先生は本当にずっと言われていました。形のよくないものは焼いてはいけないと。1度焼いてしまったら、粘土は元に戻りません。だからこれで良いのだろうか、と何度も見直し、形を大事にするようになりました。私自身、とにかく石橋を叩いて渡るような慎重な性格でありますし、それが焼き物にとても表れていると思います。だから線が細いとか、繊細だねと言ってくれる方もいらっしゃいます。それはそれで嬉しいのですが、やはり先生のような骨太なものに憧れはあります。
―その中で、ご自身らしさをどう表現していますか?
先生はアメリカでスリップ・トレーリング・デコレーションと呼ばれる、スリップウェアの技法を確立した第一人者でしたが、伝えたかったのは技術ではなく、美しいものを見る目でした。その教えを糧に、私は地味ではありますが、好きな無地で形のよいものを作りたい。そして、壺や瓶(かめ)を作るのが好きです。小さなことを考えすぎては大きなものを作れないんです。自分の小さいところを忘れられる、理想が対極にあるのかもしれません。先生は大きくなくてもいい、小さいものでもいい、とよく言っておられましたが、自分で作った壺で大きな花を活けたり、水瓶でお湯を沸かしてみんなでお茶を楽しみたいです。
―丹波焼の伝統を受け継いでいますか?
丹波らしさですか。それはまだ自分にはないところかもしれないです。丹波の土と丹波の釉薬を使って薪で焼いたからといって、それが丹波焼になるわけじゃない。やはり「丹波の焼き物を作りたい」という想いをもって進んでいく強い力がないと表現できません。だから先生の作品は丹波なんです。先生は丹波を目指してここにずっとおられました。でも私はアメリカで焼き物を勉強して、柴田先生の元で修行がしたかったからここに来ました。だから先生がおっしゃる直観的な美しいかたちを自分なりの考えで表現していきたいと思います。
大塚 誠一
1861年に創業された大誠窯は、益子では最大規模の登り窯をもち、濱田窯とともに益子焼の歴史を担っています。この歴史ある窯元に生まれた大塚誠一さんは、多感な高校生活の一部をアメリカで過ごし、大学を卒業した後に丹波へ。2002年から3年間、柴田雅章さんに師事しました。現在は7代目として、自らの手で地元の土を使い、釉薬を作り、作陶に励んでいます。
―柴田さんとの出会いを教えてください。
父は結婚してこの道に入ったのですが、出身が小田原で。もともと面識はなかったそうですが、その1級下に柴田先生がいたそうです。父は事あるごとに焼き物の産地を回っていました。いずれ大きくなった俺の修行先を探してくれていたみたいですが、そうこうするうちに先生との付き合いができ、連絡を取り合うようになりました。親父にとって一番良い修行先だと思ったようで、お願いすることになりました。集団の中で揉まれた方がいいとの考えもあったようですが、やはり質の高い人に師事する方が勉強になると判断したそうです。
益子で育つと、小さい頃から友達の親も焼き物やってるので、自分が特別な環境であると思ったことはありませんでした。修行するにあたって親父が師匠になるとどうしても甘えも生まれるし、死んだばあちゃんも俺には関西で修行して欲しいとよく言ってました。厳しいところで丁稚奉公に行けって。
―柴田さんはどんな人ですか?
焼き物が当たり前のところで育ってきて、修行するまで焼き物見て、きれいとかいう感情はあっても、いいなと思ったことがなかった。大学4年生の時に先生の展覧会を梅田阪急へ見に行った時に、ブワッと暖かい、それまで抱いたことのない気持ちになったんです。修行する前の知識はそのくらいで。僕は最後の弟子なので、一番優しかったという人もいるけど、それでも実際行ったら本当に厳しいところでした。生活習慣もそうですが、いろんなことを許さないというか。すべての行為に目的や意識づけを徹底する人でした。いつ何時も気が抜けないですよ。
―柴田さんから得た大きな学びはなんですか?
焼き物の世界って、自由な感性、自由な表現なんていうものが曖昧に求められますが、そこには地道な道筋というものがあると思うんです。民藝って、忘れられがちな道筋とか、正道を気づかせてくれますよね。仕事が必然の上で整えられて、ひとつの形を作っているんだということを教わりました。兄弟子たちも言ってたと思うんですが、先生は民藝館の展示主任をやっていたので、展示の手伝いをした時にいろんなものを触らせてもらったり、横で先生が話していることを聞いたことは勉強になりました。実際に触るって本当にすごいことですよね。スリップウェアも、古丹波も、沖縄のものとかも。
―柴田さんに師事したことで、独立して生かされたことは?
修行していた時は、とにかく下積みばかりでした。技術的なことよりもっとベースとなるもの。朝掃除して、畑の草むしりして、土を作って、灰を漉(こ)して。そうしたら先生と会う時間ってほとんどないので、人間的な勘が養われた感じですね。技術に入り込んでしまうと、技術に遊んだものになってしまうので。型ものの型押しはやっていましたが、薬掛けもろくろも教わっていないですね。
益子に戻って12年が経とうとしていますが、やっとこれからです。伝統は変わっていく。でもそこに加わる新しいものって、昔から常に合理的なものなんです。手作業が機械に変わったり、薪の窯がガス窯になったり、自分で作る土が工場で扱っている出来合いの土になったり。それをなるべく自分の手で作るものを使って、自然の薫る焼き物にしていきたい。それが先生のところで学んだ焼き物だと思います。なるべく自然の素材で。すると整理整頓されたものでは表現できない雰囲気や味が出せると思うんです。
―その中で、ご自身の個性や好きなものはなんですか?
先生もそうですが、骨董品や古美術が好きでつい集めてしまうのですが、古唐津とか、東北の焼き物も好きですね。そういうものに自分の作品が近づけられればいいなと思っていますが、それは古作を作るということではなく、背景や精神性に想うということ。必然的なことを必然の中で、肉体一つで合理的にやっていることに惹かれます。自分の個性というか好きなのは焼き上がりですね。もちろん形があってのことですが、釉薬のたまりや、そのきれいさなどに強く惹かれてしまいます。
Part 3
作家の地元で営まれる
訪れたい店や場所
柴田さんと3人の弟子たちが暮らす土地にある
その風土を生かし、歴史を継承する
いくつもの訪れたい名店や産業を紹介します。
1.岩茶房丹波ことり(丹波篠山)
丹波篠山の城下町に佇む『岩茶房丹波ことり』は、柴田雅章さんの娘である小谷咲美さんがオーナーのカフェ。築約150年の武家屋敷を改装した店内には、歴史を刻み琥珀色に染まった柱や床、随所に置かれた民藝品に風情が漂います。おすすめは、中国福建省北部の武夷山に生育する岩茶で、血行促進や利尿作用などさまざまな効果がある、稀少なウーロン茶です。煎を重ねるごとに変化する豊かな味わいを楽しむための急須や茶林は往々にして小ぶりで、これらの茶器は柴田雅章さんの作品です。お茶に合う食事も充実。中華粥と水餃子の中国粥セットや皮から手作りの中華まんじゅうは、定番の人気メニュー。小谷さんが日々研究し生まれたこだわりのお菓子は、選りすぐりの自然素材が活きる優しい味わいです。
2.山名酒造(丹波)
山々に囲まれた奥丹波の『山名酒造』は、硬水が流れる兵庫県に位置するものの、京都府に面した立地を生かし、口当たりが優しい軟水の日本酒が特徴です。創業1716年から酒造りを行い、305年が経った現在でも、麹造りや酒しぼりを機械で行わず、職人の手仕事が大半。蔵の製造を担う杜氏をはじめ、熟練の蔵人の職人技により、深みのある味わいに仕上がります。人気を集めるのが、自然を構成する「○(陽)」「△(雨)」「□(土)」にちなんで名付けられた自然酒3種。”酒米の王”と呼ばれる「山田錦」や、淡麗でキレの良い「五百万石」など、地元の契約農家が育てたオーガニック酒米を醸造した純米酒です。他にも旬の食材に合わせて風味や辛さをアレンジした季節酒など、幅広いラインナップをそろえています。
3.山路酒造(長浜)
かつて絹製品が名産だった滋賀県長浜市木之本町ですが、その一帯に桑畑が広がっていたことから、桑の葉ともち米、麹を焼酎に漬けた桑酒が誕生しました。甘く香ばしく、風味豊かな味わい。みりんの手法で作られた薬酒は、島崎藤村が東京からお取り寄せをしていたほど、地域を超えて多くの人々に愛されてきました。時が経ち、桑畑は姿を消し、多くの酒造が退いた今もなお、山路酒造は伝統的な桑酒を作り続けています。食前酒としてストレートやロックで飲んだり、レモンとミント、炭酸水を加えてもモヒートにするなど、飲み方は自由。身体が冷えた時はレンジで温めたホット桑酒もおすすめです。もち米と麹の粕を使った「みりん粕クッキー」は、サクサクとした食感と程よい塩味が、酒のおともにぴったり。
4.木之本 つるやパン本店(長浜)
“B級パンの最高峰”として全国的に知られる『つるやパン』は、滋賀県長浜市木之本町で70年続く名店です。その魅力は、バラエティ豊かなおかずパン。たくあんの食感とマヨネーズの風味が口いっぱいに広がる「サラダパン」は、当時は珍しかった”甘くないパン”を試行錯誤で生み出した創業から人気の品。おにぎりのように毎日食べられる名物です。マヨネーズの量を変えて欲しい、などお客さんの声に耳を傾け、常に改良を繰り返しています。そして新定番は「まるい食パン」。形を丸くすることで、パリッとした食感の耳と、ふっくら焼きあがったパンに仕上がります。具材を入れやすいことから、サンドウィッチにしやすいのも人気の理由。コッペパンを象った看板と、ピンク色のたぬきが目印です。
柴田雅章と3人の弟子たち展
兵庫県・丹波篠山にてスリップウェアを中心に作陶を続ける陶芸家の柴田雅章氏と、そこに師事した栗田荘平氏、七尾佳洋氏、大塚誠一氏、3名を一堂に迎え、初となる師弟展を開催いたします。
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作家紹介