BEAMS F Brilla per il gusto International Gallery BEAMS Instagram Facebook Twitter Page Top

About Us

ビームスが思う理想の男性像

"MR_BEAMS"とは、ファッションをきちんと理解しながらも、
自分の価値観で服を選べる
"スタイルをもった人"のこと。
と同時に、決して独りよがりではなく、
周りのみんなからも「ステキですね」と思われる、
そのスタイルに"ポジティブなマインドがこもった人"のこと。

今回立ち上げたオウンドメディア#MR_BEAMSには、
私たちビームスが考える理想の大人の男性像と、
そんな理想の彼が着ているであろうステキな服、
そしてMR_BEAMSになるために必要な
洋服にまつわるポジティブな情報がギュッと詰め込まれています。

本メディアを通じて、服の魅力に触れていただいた皆様に、
ステキで明るい未来が訪れますように……。

合わせる?合わせない?②

a fashion odyssey | 鶴田啓の視点

合わせる?合わせない?②

 

洋服の組み合わせには、相性が良いものと良くないものとがある。これをセオリーと呼ぶ。さて、前回どこまで話したかな?という小休止を挟んで「合わせる?合わせない?」の後編スタートである。(①を未読の方はコチラから)

「ハズシ」を(あくまでテクニック的なものとして)考えるときに重要なポイントになるのは飛距離である。そもそものセオリー地点からどれくらい遠くまで飛ぶ(ハズす)のか、ということ。

例えばネクタイの大剣と小剣を少しねじってノット下でズラす「小剣ずらし」。スーツスタイルに「動き、こなれ感」を加えるもので、ハズシのテクニックとしては比較的控えめなものであるが、スーツのチョイスを誤るとネクタイだけが浮いて見える結果となる。このテクニックが収まりやすいのは、例えばナポリスタイルの柔らかく軽快な仕立てのスーツ。カミーチャ袖やハンドステッチ、弧を描くようなラペルのラインなど、手作り感のあるディテールや曲線を意識した有機的なプロポーションに、七つ折りのネクタイを「小剣ずらし」で結べばふんわりとボリュームのあるVゾーンを表現出来るため、非常に効果的だ。勿論シャツ襟もソフトな芯地のものを選ぶ。逆に、このテクニックを堅い表地・芯地、直線的なカットの英国スーツでやろうとするとなかなか手強いことになる。これはFallan&HerveyのビスポークスーツとAtto Vannucciのセッテピエゲは、どちらも手作業で作られたクラシックアイテム同士であるが、鎧の様に堅いスーツとスカーフの様に空気を含んだニュアンスのネクタイの間には、近くて遠い距離があることを示している。「ハズシがハズレ」にならないためにも、この手のスーツにはズシリと重いDrake’sの50オンスシルクタイを剣先をそろえた静かなノットで結び下げる方が理(セオリー)にかなっている。小剣をずらすどころか、ディンプルすら入れずに素っ気ないノットで仕上げる方がむしろ潔いかもしれない。

では、距離が遠ければ遠いほど「ハズシ」が通用しないのかと言えば、そうでもない。むしろ逆である。真逆のもの同士だからこそ、釣り合いが取れてしまう瞬間がある。女性が花柄のワンピースにレザーライダースを羽織るようなもので、男性に置き換えるとブレザーやタキシード(ディナージャケット)にジーンズを合わせるということ。英国のユニフォームやイブニングのフォーマルアイテムにアメリカ生まれワークウェア由来のジーンズを合わせる「ハズシ」感覚は今やすっかり定着したと言ってよい。ビジネススーツの上着をジーンズとコーディネートすると、かなりツラい出来栄えになってしまうところだが…。ビミョーに違うものよりも、激しく違うもの同士を合わせた方がミスマッチが一周してマッチしてしまうという理論。この長距離間ミスマッチ(ハズシ)にはアンディ・ウォーホルやモーリス・レノマといったアーティスティックな先人たちが切り拓いた前例があるのは言うまでもない。真逆のアイテム同士であればあるほどファッション性は高くなるが、同時に難易度も上がる。しかし彼らの様なアーティストだけに許された遊びが時代を超えて市民権を得た結果、本来の過激さは薄れ、今やハズシの典型的な方法論のひとつになっている。

 

そういえば、そもそもはカントリー(郊外)で週末に履くものであったブラウンスエードのシューズをシティ(街)で初めて履いたのはウインザー公である、という説がある。この逸話の真贋は定かではないが、100年前の時代であればシティで履く靴はブラックカーフのオックスフォードが定石。街中で履くスエード靴は大いなる「ハズシ」であったはずだが、稀代のファッションリーダー(しかも王族)であるDuke of Windsorが履いたことで、時間と共に「あれもアリなんだ」と大衆にまで浸透。今となっては、フランネルスーツにブラウンスエードのブローグシューズを履いた紳士が銀座・丸の内あたりをぶらぶらと歩く姿はごく自然であり、都会にも違和感なく馴染んで見える。

 

僕が思うに、クラシックスタイルにおける「セオリー」の基準は「ドレッシー&スポーティ」や「シティ&カントリー」という英国をルーツとする二項対立のなかで獲得されたものであったはずだ。しかし長い歴史の中で、ウインザー公もアンディ・ウォーホルもヒップホップもピーコック革命もアルマーニも通過した現代のクラシックスタイルと、今僕らは対峙している。例えば「ヤバい=危ない、良くない」という言葉が1990年代に「クールでかっこいい、最高」という(本来とは真逆の)意味を獲得したのと同様に、洋服の意味も大きく変わった。ジーンズやトレンチコート、オイルドクロス、ゴム引きコットン、フルブローグなど、実用から生まれたデザインが本来持っていた意味とは違うものに変容した現在、セオリー地点は限りなくぼやけている。結果的に「ハズシ」の手段としての逆サイドを取りづらいのかもしれない。しかし。

初めにも書いたように「あえて合わせない=ハズシ」という行為にはテクニックや知識以前に能動的な意思がある。「普通に合わせれば間違いないのに、なぜハズシたいのか?」「普通じゃつまらないから(普通はつまらないのか?)」「お洒落に見せたいから(ハズシはお洒落なのか?)」という自問自答を繰り返すことで、ぼんやりとしていたものが見えてくる。探すのはセオリー地点の座標ではない。どのように装いたいのかという、自らの意思の所在である。幾度とない自問自答の末に、鍛え抜かれたその意思こそが「ハズシ」を単なるテクニックに留まらない「スタイル」へと昇華させる。

Share

Other Posts

もっと見る

Related Post