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ビームスが思う理想の男性像

"MR_BEAMS"とは、ファッションをきちんと理解しながらも、
自分の価値観で服を選べる
"スタイルをもった人"のこと。
と同時に、決して独りよがりではなく、
周りのみんなからも「ステキですね」と思われる、
そのスタイルに"ポジティブなマインドがこもった人"のこと。

今回立ち上げたオウンドメディア#MR_BEAMSには、
私たちビームスが考える理想の大人の男性像と、
そんな理想の彼が着ているであろうステキな服、
そしてMR_BEAMSになるために必要な
洋服にまつわるポジティブな情報がギュッと詰め込まれています。

本メディアを通じて、服の魅力に触れていただいた皆様に、
ステキで明るい未来が訪れますように……。

センスの所在

a fashion odyssey | 鶴田啓の視点

センスの所在

日常会話の中で頻繁に使われる「センス」という言葉がある。

そして、世の中には「センスがある人」と「センスがない人」の二種類が存在すると昔から思われてきた。さらに言えば「センスがある人」はあたかも「先天的にセンスを持って生まれてきた」かのようにも語られてきた。

「あの人と違って、自分にはセンスがないからなぁ…」

ファッションのセンス(コーディネートが上手い)、スポーツのセンス(バットコントロールが上手い)、音楽のセンス(リズム感が良い、音程が狂わない)、写真のセンス(最良の画角を一瞬で捕まえる)など、様々な活動の中で「センス」の有り無しが問われる。そして、センスがあれば「プロフェッショナル」としてその活動を職業に選ぶこともできる???それにしても「センス」の正体って一体なんだろう?直訳すると「sense=感覚」ってことだけど…。

しばしば「天才型」「努力型」と表現されることからも、「センス」の反対語は「努力」だと思われているようなフシがある。「生まれつきセンスを持っている人との差を埋めるためには(センスを持っていない人は)泥臭く努力していくしかない」と。ある意味でそれは正しいし、以前にも書いたとおりひたすらに繰り返して積み重ねることで発現する「暗黙知」と呼ばれるものさえある。数学のテストや野球の試合に備え、計算ドリルや素振りをひたすらに反復することで得られる「暗黙知」を身に付ければ、本番でも数学脳がスピーディーに回転するし、ボールに対してバットは自然と出てくる。これは後天的に努力で身に付けられる「センス」の一つであろう。

しかし、僕は思う。点数が付けられて勝ち負けが決まるような「テスト」や「試合」ならともかく、ファッションの様に勝ち負けが付かないジャンルにおいて、そもそも「センス」を身に付けるための努力など必要なのだろうか?第一、僕は「センスがある人」と「センスがない人」の二種類が存在するとは思っていない。自身の中で蓄積された経験によって、人それぞれ形は違えど「センス」は初めから全員に備わっていると思っている。

ファッションに限って言うならば「センスがある(と言われる)人」は、自分の中にある直感を表に出すのが得意なだけ。「センスがない(と思い込んでいる)人」は心の奥の方にある直感を「多数派の意見」や「人の視線」「社会性」といった分厚い断熱材で覆い隠してしまっているだけのように思う。「直感」=「センス」はみんな持っているのに、触れ方や取り出し方が分からない。「あの人のセンスは独特だね」なんてことを言うが、そもそも「センス」は人それぞれ、初めから独特に決まっている。それは3歳児が描く絵がそれぞれ違うようなものだが、歳を重ねると共に「褒めてもらえるような描き方」に変わっていく場合が多い。(念のために言っておくと、この変化が悪いとは全く思っていない。人に求められるように表現出来ること自体は非常に高度な思考を必要とするものである)人に褒めてもらえるかどうかを気にしないで素直に出せば、本来はみんな違う色をしているはずだ。勿論、皆が「自分のセンス」を持っている中でも、数多くの他人から支持を集める「センス」を持つ人を一般的には「お洒落な人」と呼ぶことになっている。

では、自分の奥底にある「センス」に触れるためにはどうしたらよいのか。先に述べたような断熱材が自分の直感へのアクセスを妨げているのだとしたら、それを取り払う必要がある。すべてを取り払うことはなくとも、部分的にでも穴を開けてあげればよいのだ。それは「社会性を捨てよ」という意味では決してない。ファッションにはTPOが存在するので、ビジネスやフォーマルなど身なりに関する「マナー」が必要とされる場では「センス」よりも「知恵」が求められる。いつでもどこでも自分勝手に好きな格好をしなさい、と言っているわけではない。

しかし、あくまでも自分自身の為に楽しもうとする場合、「~ねばならない」「~すべきである」という分厚い断熱材を纏ったままでは、心から自由にファッションを楽しむことは出来ない。このご時世、ともすればファッションは人生に必要のない行為として扱われ始める。しかし、ファッションの根底にあるのは「楽しい」という気持ちであり、それは単純な衣服の機能性を超えたところで人生を豊かにしてくれる(はずだと僕は信じている)。「楽しい」を「心から楽しい」に変える為には、自分の奥底に眠っている「センス」へのアクセスが必要であり、その為には自分を包み隠している断熱材に穴を開けてそこから手を伸ばせば、本心にいつでも触れられる状態を作るということ。それはトンネルを開通させる作業でもあり、開通手段はアートでも音楽でも文学でも映画でも書道でも、ファッションでも何でもよい。純化された「センス」によって他人が生み出してくれたそれらは、自らの根底にしぶとく居残っている既成概念や社会性を破壊して「別にみんなが言うとおりにしなくてもいいんだよ」というすっきりとした穴を心に開けてくれる。様々な角度から多様なサイズで数多くのトンネルが開通している人は、あらゆる局面で自分らしい「センス」を発揮することが出来る。結局のところ「センスがある人」というのは、「誰もが生まれつき持っている自分の直感に触れるため自分自身に穴を開ける事が出来る人」なのだろう。

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ジェンダーや人種など、あらゆる局面での解放や多様性が叫ばれる昨今であるが、自分自身の毛布に包まったままで主張を繰り返すよりも、まずは自分の思い込みを破壊してくれる電動ドリルの鋭さを他者の中に探すところから始めれば、心にぽっかりと開いた穴から流れる風通しが巡り巡って、自らの「センス」へと導いてくれる。他者の発見と承認こそが、自分自身の解放につながるのだと思う。対岸にいる他人を笑っている場合ではないし、壊されることを恐れてはいけない。自分の目に見える美しさが、他人と同じでなくてはならない理由などどこにもないのだから、胸を張って正直になるしかない。

常々、僕は「もっと自分が思うように写真を撮りたい」と思ってきたけれど、なかなか自分の「センス」に触れられないままでいるような気がする。まだまだ、穴の開け方や壊し方が足りないのだろう。とは言え、穴を開け過ぎて断熱材がほとんど残らない/原型もないボロボロの状態になってしまうと、社会生活そのものが困難になってしまったりするので、ご注意を。さぁ、そして。僕は今日のこのテキストを人に褒められたいと思いながら書いているのか?それとも自分のセンスに触れながら書いているのか?果たしてどっちだろう。

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