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36
Hirofumi Kurino
UNITED ARROWS
#FASHION #TREND
Jul.22. 2021
about
Jul.22. 2021 / #FASHION #TREND

36 Hirofumi Kurino
UNITED ARROWS

& Hideki Mizobata(BEAMS PLUS DIRECTOR), Mieko Nagatomo(BEAMS ARCHIVIST) Photography: 80percent_photos
Text: Masayuki Ozawa[MANUSKRIPT]
ユナイテッドアローズで上級顧問 / クリエイティブディレクションを務める栗野宏文さんは、1978年にBEAMSに入社され、当時設立されたばかりの小さなBEAMS Fを支えてこられました。現在、国立新美術館で9月6日まで開催中の「ファッション イン ジャパン 1945-2020 ―流行と社会」では、1970年代後半の セクションにおいてBEAMSが創業の頃の史料を出展しており、栗野さんが当時、身につけてお店に立たれていた<チャーチ>の靴をはじめ、いくつかの私物をお借りしています。1976年にビームスが創業してからの激動を、時に俯瞰しつつ、その中心で見続けてきた栗野さんの経験は、BEAMSが後世に継承したい多くが詰まっています。BEAMSを代表し、BEAMS PLUSのディレクター溝端秀基と、現在は自社の歴史をブランディングに活用するアーキビストとして活動する長友美恵子が聞き手となり、当時のことをたくさん話して頂きました。

BEAMS Fには、他のお店にはない
新しい服がたくさんありました。

Hideki Mizobata(以下、H.M):
本日は足元が悪い中、お越しいただきありがとうございました。ビームス プラス ディレクターの溝端です。早速ですが、栗野さんが、ビームスで働き始めた時のこと、教えてください。
Hirofumi Kurino(以下、H.K):
僕は1977年にファッション業界に入って、78年からBEAMS Fにお世話になりました。ご存知の通り「F」はフューチャー、つまりカジュアルで成功したBEAMSの未来を作ろうとしていました。たしかBEAMS Fができて2ヶ月目くらいに自分が入ったんです。当時の店長は後にユナイテッドアローズの社長となった岩城さん。彼と僕だけだったのでとても忙しくて。3ヶ月くらいで社員にして頂き、もう3ヶ月くらいで店長になりました。
H.M:
すごいスピードですね。その頃のお店はどのくらいの規模だったのですか?
H.K:
ただ、人がいなかっただけですよ。お店の広さは2坪半。現在のビームスの原宿店の中にありました。壁面だけのコーナー展開でしたが、記憶に間違いがなければ月に2000万円くらい売れていました。
でも、2年くらい休んだ記憶がないくらい、全力で走り続けた日々でした。
H.M:
すごい売れ行きですね!しかも、そんなに在庫があったことも驚きました。看板商品はありましたか?
H.K:
在庫もあったし、坪効率がとにかくよかった。当時、一番売れたのがチノパンツ。今もある<バーンストーマー>さんと、今はなき朝倉縫製さんという会社が作っていた2ブランドがありました。ともにね、2プリーツのストレートでしたが、朝倉縫製さんの方は裾が細くて、ヨーロッパっぽいんです。それは当時部長兼バイヤーだった重松さんの美学をかたちにしたものです。他のどこにもそんなシルエットがなかったので、オリジナリティを求めるスタイリストや編集者のお客様がすごく多かった。
H.M:
当時、ウディ・アレンやダイアン・キートンがプリーツ入りの太いチノパンを履いている姿を資料で見ますが、どちらかといえば裾が広がってみえる太いストレートでした。その頃にテーパードがあって、しかも爆発的に売れていたんですね。
H.K:
重松さんと自分の考え方は「ないものは作ってしまおう」でした。そこが他のセレクトショップとの違いだったかもしれません。あと、覚えているのが最初の1年間はジャケットがお店になかったんです。お客様に聞かれても「すいません、来年くらいにやりたいと思っています」なんて話していました。それでリングヂャケットさんを紹介してもらい、79年か80年くらいにジャケット込みのドレススタイルが出来上がるんですね。ウィンザー公とシンプソン夫人にあやかって<ウィンザー&シンプソン>って名前を僕がつけたんです。

多くの人種と社会を巻き込み
プレッピーはアイビーよりも浸透した

H.K:
ビームスが創業した1976年は、シップスが渋谷の道玄坂に移転した年でもあり、日本はセレクトショップの黎明期でした。シップスは割と早くからジャケットやドレスシャツやネクタイも展開されていました。ビームスもカジュアルで成功して、ドレスをやろうということでBEAMS Fを作って。ちょうどアメリカがプレッピーブームでした。後にも先にもメンズファッションのトレンドが、あそこまでアメリカと日本がシンクロしたのは、最初で最後じゃないかな。でも、重松さんや僕は、いわゆるなアイビーは好きじゃなかったんです。
H.M:
俗にいう、日本が作り上げたアイビースタイルということですか?
H.K:
そう。米軍基地のすぐそばで生まれ育った重松さんは、小さな頃からリアルなアメリカを見続けて育ちました。だから日本が作ったアイビーブームに反発とか、懐疑心があったんですよ。僕もロックからファッションが好きになったので、元々アイビーに興味がなかった。ビートルズが好きになって、ザ・フーやデヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージックとかの音楽を聴いて変わった格好をする、みたいな感じで、行くところまで行くんですよ。プラットフォームブーツ(ロンドンブーツ)なんて履いたりしてね。
Mieko Nagatomo(以下M.N):
栗野さんも履いていらしたとは、とても意外ですね。
H.K:
ところが1975年だったかな、デヴィッド・ボウイが『ヤング・アメリカンズ』を出すと、髪をバッサリ切ってチェックのシャツを着たりして。それまでオレンジ色の髪でプラットフォームブーツを履いた今までのボウイじゃなくなるんです。それと同時にブライアン・フェリーがね、ロキシー時代はド派手な格好だったけど、ビジネスマンみたいなヘアでスーツとかを着ちゃうんです。つまり、頭の中身がコンサバなのに格好だけが最先端だったり、ヒッピーっぽかったりする姿よりも、頭の中身がアウトサイダーだけど格好がクラシックなフェリーの姿に共感して。そこで、アイビー派じゃなかった自分もスーツを着てネクタイを結んだわけです。
H.M:
アイビーとプレッピーって、一般的には同義語で、すごく解釈の違いが難しいですよね。どちらかというと、プレッピーの方が取り入れやすかったのでしょうか。
H.K:
決定的な違いは、アイビーは社会の階層との結びつきが強いんです。アメリカのマディソン地区のエリートサラリーマンが着たブルックスブラザーズのスーツはアイビーです。でもプレッピーはその息子であり、第二、第三世代だから、着ている服やブランドは一緒でも、気持ちがもっとカジュアルなんですよ。だからあそこまで広がったと思う。
M.N:
私、以前に栗野さんから伺ったすごく印象的なお話があるんです。1980年代のニューヨークは、伝統的なスタイルと革新的な要素のミックスが生まれて、社会の階層やジェンダーが存在しない、それまでのルールを壊したファッションに感銘を受けたと。そしてその背景には、現在でいうLGBTや、アフリカンアメリカンが参加したことで自由な空気感が表現され、プレッピーを広げる役割を果たしていたんですよね。
H.K:
と、私は思っていますが、それは当時文字化されていないですね。その頃はテレビやラジオでも、そこまでは報道されてないから、日本の雑誌や洋雑誌などを買って必死にみるわけですよ。あとはレコードジャケットとか。その点でいえば『ポパイ』や『ブルータス』『GQ』が果たした役割は大きかったですね。
M.N:
そういった80年代にファッションが世界的に広がったように、BEAMSでも色々なレーベルが誕生しました。私はBEAMS FがBEAMS Fを残しただけでなく、BEAMSの文脈を広げたと思っています。
H.K:
そう捉えてもらえるのはもちろん嬉しいです。確かに80年代はファッション自体が広がりました。”ストリート”という言葉がオーサライズされて以降、なんでもありな風潮が生まれた。そして’90年代に音楽史でいうとグランジが誕生して、カート・コバーンの格好にはもうファッションのルールが全部なくなっていましたよね。でも、もう一度ファッションが元気になって、意地悪な言い方をすれば、ストリートとランウェイの間で下剋上が起きてしまった。ストリートが上位概念になって、それをランウェイが取り入れるようになりましたね。
M.N:
現在のファッションシーンに似ていますね。
H.K:
そうです。あと、世界的に大事なのは80年代後半の”ハウスオブビューティアンドカルチャー”と”バッファロー”。2つともロンドンですけどね。クリストファー・ネメスやジュディ・ブレームとか。そのロンドンのムーブメントを横目で見ながら、ジャパニーズファッションの影響を受けて現れたのが、アントワープシックスなんですよ。あの頃、ハウスオブビューティーカルチャーに行っていたマルタン・マルジェラのように、誰が何を着てもよいカルチャーが生まれたのは良かったよね。

ブレザーにジーンズに英国靴は
BEAMS Fならではの自由な組み合わせ

M.N:
そして、伝統を重んじながら革新していく感覚って、BEAMSのタグラインでもある「BASIC&EXCITING」のベースになる考えですよね。栗野さん的に、当時のBEAMS Fが提案していた、印象に残っているスタイリングはありますか?
H.K:
じつは今日着ている、ブレザーにシャンブレーのワークシャツにネクタイに、英国靴ってありそうでなかった格好なんです。当時の個人定番ボトムスは重松さんが白いワークパンツで、僕は<リーバイス>の501でした。足元は、展示にお貸ししている<チャーチ>の「バック」というモデルを履いて店頭に立っていたんです。ある日、メンズファッションに関わる多くの本を出していたり、日本では樫山さんがライセンスを始めたりして、当時一番おしゃれな業界人と言われていたアラン・フラッサーさんが店に来て僕の格好を見て「君が今日選んでいるものは全部正しい。最高の組み合わせだ」って言ってもらえたんです。自分の洋服屋としての人生でベスト10に残るうれしいハイライトでしたね。
H.M:
そのスタイルはどんどん世の中に浸透していったんですか?
H.K:
そうでも無いです(笑)。あの時代に我々が提案していたことって、おしゃれが好きな人の間では取り上げられていたと思うんですけど、一般的にはプレッピーの方がわかりやすかったと思います。さっき話しましたけど、プレッピーって要は育ちの善い家の子弟のカジュアルだから、デニムに<ロレックス>の時計をしたり、寒いからポロシャツの上にボタンダウンシャツを着ちゃったり、そこに長友さんがおっしゃったゲイピープルやアフリカンピープルの自由な色使いが、拍車をかけたんだと思う。BEAMS Fはそこにフレンチをさらにミックスしていたんです。僕たちは日本のメジャーブランドが発信していたようなアイビーのルールがファッションの入り口じゃなかったから、一点一点の完成度が高ければ出自が違っても相性は良い、という考えだったんですね。それがBEAMS Fと他のトラッドショップの大きな違いだったと思います。
H.M:
BEAMS PLUSはどちらかというとアイビーのルーツが強く、ユニフォームなど型から入るタイプです。ファッションも正解か不正解かが軸となるレーベルについてはどう思われますか?
H.K:
もちろん我々も歴史や知識やものの成り立ちや、縫製に関してとかすごく勉強しました。ただ、それよりは味で勝負していたところもあるんです。大切なのは、人間的な信用がその人にあるかどうかですよね。当時は今よりも口コミの時代だったので、誠実であり、真面目にファッションしていることが大事でした。その頃のお客様は、今もBEAMSやUA(ユナイテッドアローズ)に来てくれているし、少なくとも服を買い続けてくれていると思います。
H.M:
BEAMS PLUSは今回のお話のテーマである、70年代後半よりもっと前、1945〜65年のアメリカをテーマに服作りを続けています。栗野さんは、その時代のアメリカをどうみられていますか?
H.K:
悩みがなかったんでしょうね。実際にはあったんだろうけど、多分そこまで病んでいなかった。音楽を聴いても、50年代とかはポジティブで能天気な曲が多い。フランク・シナトラとか聞くと、もう二度とこういうエレガントな曲は生まれないなと。
H.M:
今回の対談でいろいろミュージシャンのお名前を出されていますが、たしかにシナトラは優雅ですよね。
H.K:
クリスチャン・ラクロワってデザイナーがいるでしょう。彼はもともとファッション史の勉強をしていて、ヒストリアンになりかったんです。で、彼はアメリカにエレガンスはないと思われているけど、その時代はあった、と断言していました。それが50sですね。女優でもグレイス・ケリーやヘップバーンがまさにその頃。エレガントって言葉が最後に残ったディケイドだと思いますよ。
H.M:
ちょうど先日、高円寺で50年代のヴィンテージをリサーチしていて気づいたんです。改めて日常着にこんな上質な生地を使っていて、さぞいい時代だったんだろうなって。何か服から見ても余裕を感じるんです。
H.K:
50年代のアメリカって、スリム・アーロンズの写真集なんかまさにそうだけど、おしゃれな人イコールリッチなんですよ。いい家に住んで、いいものを食べて、いい服を着るといった人たちがいて。でも彼らは貧しい人を見下していない感じで、双方が「俺たちはこれでいい」という或る意味で身分相応の考えがあったんじゃないかな。良いかどうかは別として階級の文化を保っていた品の良さがあった。結局それは人種、収入、イデオロギーといった様々な問題が噴出する前の時代だから、一概によかった、とは言えないけれど。
H.M:
その問題が噴出したことで、ファッションは自由になりましたもんね。
H.K:
そうですね。僕はジョージ・クレバリーのスタッフに「何故こんなに丁寧な靴作りが残っているの?」と聞いたら、ロンドンには働いたことがない大金持ちや貴族が今もたくさんいるから、だと。そういう彼らがビスポークで靴やスーツを作るおかげでテーラーたちは成り立っていると聞いてなるほどと思いました。京都などの高級な工芸も、それに近いものがあるかと思います。そして古着店にどうしてハリスツイードのジャケットや古いジーンズが残っているかの理由は結果的にクオリティが高かったからでしょうね。
M.N:
そうですね。その意味では、今回お貸し出し頂いた<チャーチ>は本当に素晴らしい靴ですね。そして、今回驚いたことに、箱の中に当時購入された時のレシートが入っていたんです!
H.K:
宝物です!当時は5万円くらいしたと思います。給料の約半分ですよ。

ファッションは「お友達」。だからこそ
買い物は好きかどうかを優先して

M.N:
本当にものを大事にされる方であることが伝わりました。ところで、栗野さんにとってファッションってどういう言葉に置き換えられますか?
H.K:
多分、それは「お友達」です。長く付き合っている友達もいれば、最近知り合った友達もいれば、しばらく会ってない古い友人もいて、誰ともさよならはしたくない。結果としての流行は否定しないし、あって然るべきだけど、それを「買う・売る」を決める理由にするのはもう世の中的に限界じゃないかな。BEAMS PLUSもBEAMS Fも、タイムレスなものを取り扱っているから、モードとは違う場所にいられますよね。
H.M:
僕らの服がモードの真逆と言ってしまうと、ファッションを否定しているように聞こえてしますのですが、栗野さんのお言葉をお借りすれば、常に横にいる人という考えが大きいなと思います。
H.K:
それは白いご飯のようなものかもね。嫌いというか、飽きた人はいない。けれど炊く釜を変えたり、一緒に食べるものを変えたりするだけで、またおいしいと感じる。ビームスもシップスも、ユナイテッドアローズも、基本的にメンズ出身のセレクトショップです。だからお店が残り続けているのかもしれないですね。ウィメンズのお店やブランドは流行とか非継続性に価値を置いているショップが多く、足元がすくわれやすいのかもしれない。
H.M:
買い時だけではなく、売り時も考えて買い物をする時代に、大切なことを教わりました。今回お借りした<チャーチ>の靴をはじめ、栗野さんが大事に残し続けてきたものは、何をもたらしてくれましたか?最後にメッセージをください。
H.K:
何か好きでい続けることは、自分の大きなエネルギーであり、幸せに暮らせるのは間違いないメッセージだと思う。だからといって、僕はみなさんが買い物をし続けてくれるのであれば、リセールを考えることを否定しません。僕なんか、服とレコードで家がパンパンで大変だから(笑) でも買い物をする時、それが「高く売れるか」よりも「好きであるか」を優先して欲しいですね。
H.M:
情報が多い現代だからこそ、リセールより、自分の中の好き嫌いを判断することの方が難しいのかもしれません。
H.K:
女の子やパートナーを好きになる気持ちって、損得を考えませんよね。さっき、僕は服を友達と例えましたが、一番優先したいのは、そこにどんな幸せが自分に残るかどうか。僕だって、ものを残そうとして買い物をし続けてきたわけではありません。ただ、好きの度合いが高すぎただけ。それこそBEAMS PLUSには、そういう服がたくさんあります。僕も年に何着かは、お買い物してますよ。
Hirofumi Kurino
Hirofumi Kurino
UNITED ARROWS

1953年生まれ。ユナイテッドアローズ上級顧問クリエイティブ・ディレクション担当。大学卒業後、株式会社鈴屋に入社。1978年入社のBEAMSを経て1989年ユナイテッドアローズ創設に参加。バイヤー、ディレクターとして80年代のパリ・メンズ・コレクションから40年以上にわたって内外のファッション業界を俯瞰。政治経済・音楽・映画・アートから国内外情勢を投影した時代の潮流(ソーシャルストリーム)を捉えるマーケターとして、国内外で高く評価され、日本のファッション業界をドメスティックとインターナショナルな視点から俯瞰的に語ることができる数少ないファッション・ジャーナリスト。2020年に「モード後の世界(扶桑社)」を上梓。

Hideki Mizobata
Hideki Mizobata
(BEAMS PLUS DIRECTOR)

2006年にBEAMSに入社。2013年にBEAMS PLUSのバイヤーを担当。その後、2016年の春夏シーズンよりBEAMS PLUSのディレクターに就任。レーベルの舵を取り続けながら、バイイングも引き続き担当している。

Mieko Nagatomo
Mieko Nagatomo
(BEAMS ARCHIVIST)

1988年にグラフィックデザイナーとしてBEAMSに入社。のちにアートディレクターとして多くの販促物を手がけ、2008年よりブランディングディレクターに就任。2019年より、自社の歴史をブランディングに活用するBEAMS Archivesを発足させる。クリエティブ視点を生かしたアーキビストとして活動中。

Information.

「ファッション イン ジャパン 1945-2020 ー流行と社会」東京展

詳しくはこちらよりご確認ください。

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BEAMSにまつわるモノ・ヒト・コトをあらゆる目線から切り取り、
ヒトとヒトとのお話から”今気になるアレやコレ”を
紐解いていく連載企画 【TALK】。

洋服のデザイナーからバイヤー、フォトグラファーやモデルなどなど。
様々な職種のプロフェッショナルから
”今気になるアレやコレ”を伺います。

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